武士道を読んで。ー第八章 名誉ー 

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新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第八章。

この章は、『名誉』について書かれています。

この章で一番心に残ったのは、「名誉は強き家族的自覚と密接に結ばれているが故に、真に出生以前の感化である」という一文。

なぜ、それが心に残ったのかと言えば、「名に恥じない」とか「家名に泥を塗る」とか、とにかく「名」とは、もうその家に生まれてしまったら最後、抗えない守るべきものとして、確かにしっかり教育されてきた感が、私自身の実感としてもあるなあと感じたからです。

とくに、それを言うのは、母親のイメージが強いのも特徴じゃないかと思います。

母が子供に、何かいけないことをしたとき

「そんなことするなんて、あなたはこの家の子じゃありません!!」

と叱ったりする光景は、よく見た気がします(私も言われたことがある気がする・・・)。

つまり、名誉とは、単体である個人のこと、というよりは、先祖代々伝わる、その家に受け継がれてきた誇り・プライドと言ったものも含まれる、ということ。

名誉と対比して、「恥」という感情のことも書かれていましたが、「恥」が原初的かつ人間が持つようになった始まりの感情として聖書の中のアダムとイブの記載(知恵の実を食べた後の感情)の引用もありました。

恥、という感情は、人間が最初に感じた負の感情

つまり、「自分」というものを宇宙自然と切り離して自覚したとき(つまり、自我がスタートしたとき)に初めて芽生えた感情と言えるかもしれません。

とすれば、自我(エゴ)を超えるには、「恥」という感情を突破していくことが、認識の拡張に重要なポイントになるんじゃないか、そんな風に感じました。

今日も読んでくださってありがとうございます。

武士道を読んで。ー第七章 誠ー 

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新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第七章。

この章は、「誠」について書かれています。

最初に、信実と誠実なくしては、礼儀は茶番。とありました。

誠、というのが、「言」と「成」という2文字からなっているのも興味深いところです。

孔子曰く、「誠は物の終始なり、誠ならざれば物なし」と、まるで、誠から物質が生まれているようなイメージもくる表現です。

聖書にも「最初に言葉があった」とあるように、「言」からすべてが生まれ出た、という点でつながってきます。

その「言」の重要性という点で「武士に二言はない」ということばもよく耳にします。

それが、武士の誠実さ、信用を表すもの。

江戸時代の士農工商という身分制度から見たら、「商」において、武士は甚だ不得意分野だったため、明治維新後の最初はかなり苦労もあり、日本の商業道徳は外国からレベルが低いと思われる部分も多分にあったようです。

結論として、商にも「信用」は不可欠で、徐々に武士が商業に通じていくことで日本の信用は挽回されていったと思いますが、日本の「商」は、かつては道徳的なものではなく、

今でも、私の世代の多くは、宮仕え(もしくはサラリーマン)はすんなりできても、自分で商売を起こすのは苦手だったり、商売人をどこか低く見てしまう、といった観点があります。これは、江戸時代のこのイメージを引きずっているのかも・・・とふと思いました。

それでも、若い世代は、SNSの後押しもあり、起業家を目指す人や、自宅で子育てをしながらママ起業、等も憧れられる世の中になっていますので、少しずつ、「商」に対するイメージも変わってきていますね。

いずれにしても、大事なのは信用であり「誠」。

私もビジネスセンスはまったくない自覚があるので(;’∀’)、個人事業主としてやっていけるのか自信はないのですが、ただ「誠」は大事にしていきたいと思っています。

今日も読んでくださってありがとうございます。

武士道を読んで。ー第六章 礼ー

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新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第六章。

この章は、『礼』について書かれています。

一言でいえば、礼とは、型ではなく心だと、表現されていたように思います。

心とは、相手をおもんばかる気持ち。相手に尊敬の念をもって立場チェンジする気持ち。

西洋人は、日本人の礼儀を重んじる姿をみて

「なんとまあ、形ばかりの無駄なことを・・・」と思う場面が多かったのかもしれません。

でも、実際、よくよく観察してみると、それは、もっとも効率的で、もっともシンプルに集約された型、動作スタイルだということが見えてきたはず。

それが、茶道を例にとって書かれていました。

私も茶道を習ったことがあるので、分かります。

ひとつひとつの決まった動作は、覚えるまでは面倒に思うかもしれませんが、慣れてくると、実は一番無駄のない最短の動きだといわれます。

そこまで洗練され、無駄をそぎ落とされた型を「優美」とこの本では表現していました。

太極拳も、動作はゆっくりですが、実はスピードを上げると全部、戦う際の「型」になっている、と聞いたこと上がります。

長年の間に、最も洗練されて、無駄が一つもない型。

その型を日々繰り返せば、経済効率も非常によく、それが力にもなっていく。

私たちの日常でも、一番シンプルな型を見つけて(洗練させて)、それを日々繰り返して、力を蓄えていきたい。

そんな風にイメージすると、なんだかわくわくしてきます。

今日も読んでくださってありがとうございます。

武士道を読んで。ー第五章 仁・惻隠の心ー

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新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第五章。

この章は、仁について書かれています。

まず、愛、寛容、愛情、同情、憐憫、なかでも慈悲が一番重要だとありました。

仁とは、人のことですが、人の中でも、君主として立つ人の在り方、人の上に立つ人の在り方として、仁=慈悲の心が非常に大事だ、ということだと理解しました。

タイトルにある「惻隠」とは、かわいそうに思うこと、同情すること、だそうです。

同情とは、文字のまま受け取ると、相手の気持ち・感情と同じ感情を感じること、つまり、相手の気持ちを推し量りその気持ちに寄り添うこと、ともいえるかと思います。

相手の心と一つになるあり方、ですね。

四章の最後に、「平時の時に友に値するものだけが、戦時の敵となることを要求し、そのレベルになった勇が仁に近づく」とありましたが、

相手と一つになるからこそ、さらに高みを目指し、最高の敵同士(好敵手というとわかりやすいかもしれません)にもなれる、そんな風に感じました。

もう一つ、印象的だったのが、伊達政宗が言ったという格言、

「義に過ぐれば固くなる、仁に過ぐれば弱くなる」

にも、なるほどと思いました。

道理に固執したら固くなるし、相手に寄り添いし続けて一緒に悲しんでいるだけでは物事は前進しない、なんだか、男性性と女性性ともつながるように思います。

男性は、正しいことを言って道理で解決しようとするし、女性は気持ちに共感するだけでほぼほぼ解決したり・・・と。(ただ共感してほしいだけなのに、解決策を理路整然と提示されて切れそうになった世の女性は多いはず(笑))

いずれにしても、ここまでの義と勇のバランスととるのが、仁、というイメージも来ます。

日常生活でも、正しい道理を通すことに偏りすぎると、かなり疲弊してしまいますよね。そんなときは、すべてとひとつになる(nTechからみたら、「源泉動きひとつしかない」ですが)仁をイメージすると、心が安らぎそうです。

今日も読んでくださってありがとうございます。

武士道を読んで。ー第四章 勇・敢為堅忍の精神ー

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新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第四章。

この章は、「勇」について書かれています。

印象的だったのは、「義を見てなさざるは勇なきなり」というフレーズ。

論語で説かれている言葉だそうですね。

今までよく聞いてきたフレーズですが、改めて理解するととても重要なものだとわかります。

三章に、「義」についての説明がありました。

その義があってこその勇であり、義のない勇は、レベルが低いものになります。

つまり、なんの脈絡もなく、自分の力の強さを示すだけの勇は、めちゃカッコ悪いじゃん、ということ。

死に値しないのに死ぬことは犬死とか、正しい道理(=義)に沿わずに、ただ無鉄砲に、もしくは無駄に死ぬのはよろしくないこと、と理解されます。

更に、最後書かれていた、上杉謙信から武田信玄への「敵に塩を送る」エピソードは、武力で闘う敵同士は、それ以外(敵の領地での食料(この場合は塩)などの窮地に対して)のことでは協力する、という、まさに「義」を通す「勇」の例えでした。

日本人だったら幼いころから叩き込まれている「卑怯なことはしちゃいけない」「正々堂々と」といったイメージは、まさに「勇」のエッセンスがしっかり含まれているなあと感じます。

武士道は、私たちの日常のあちこちに、今も根付いていますね。

今日も読んでくださってありがとうございます。