武士道を読んで。ー第十五章 武士道の感化ー

mountain covered by snow

新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第十五章。

この章は、「武士道の感化」について書かれています。

冒頭にあった、「まず武士階級を照らした倫理体系は、ときをふるに従い大衆の間からもその追随者を惹きつけた」という文章が印象的でした。

朝、まず山頂を照らした光がやがては山のすそ野にまで広がるように・・・という例えにあるように。

武士道は、最初は武士の階級を貫く倫理体系だったものが、大衆にも受け入れられ、それを模範として自らもそうあろうとし、老若男女が賛同したからこそ文化として根付いたものだったのだと感じました。

それが日本における武士道。

鎌倉幕府創設以来、武士が天皇を支えながら日本を統治するようになり、その700年近い歳月の間、とくに武士が治めつつも戦いがなくなった江戸300年間に、倫理規範として体系化され、庶民にもその規範に沿った生き方が根付いたのではないでしょうか。

「花は桜木、人は武士」

と言われたことからも、武士は全日本人の理想、ヒーローでもあったようです。

本居宣長の

「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花」

とにかく、武士を表すときに、セットでイメージされるのは桜。

薔薇のように華美ではなく、淡い香り。

でもその美しさや潔さ、そして、微かな中にもそれとはっきりわかるその香りが、日本そのものの心をあらわしていると言われれば、とてもしっくりきます。

「大和魂は柔弱なる培養植物ではなくして、自然的という意味において野生の産である」

という文章も印象的でした。

自然に、この日本に醸し出された魂、それが大和魂。

それを植物に例えれば、まさに、自然に山に咲いた桜。

誰に見せるためでもなく、ただ自然の中でありのまま毎年咲き続けるのが山桜です。

第二次世界大戦で大敗し、その後は世界の平和と発展のために、戦争犯罪国家の烙印を押されようとも、黙々と働き続けその利益を、世界中の国々に還元し続けた、まさに日本という国の魂をあらわしている、

そんな風に感じました。

今日も読んでくださってありがとうございます。

※9/12(月)より、令和哲学カフェでは『SAMURAI哲学』と題して、日本の侍たちの哲学を取り上げています。その中で、nTech講師でもある塩見典子さんが、この新渡戸稲造の「武士道」を取り上げて、解説していますのでそちらもぜひご視聴ください。

令和哲学カフェの案内はコチラ

令和哲学カフェ 第551回(9/13開催分)では、新渡戸稲造の「武士道」を解説!(9/20まで無料で視聴できます)

令和哲学カフェアーカイブは、nOUで視聴できます。

10/8・9・10は、第2回Dignity2.0国際カンファレンス@ニセコ

clouds

昨年、大阪で初開催されたDignity2.0国際カンファレンス。

コロナ禍の中でも、オンライン、オフライン、メタバースで3000名が全国から、さらにはオンラインでは世界各地からも結集して、大変盛り上がりました。

今年は、開催地を北海道・ニセコに移して、来月の10月8(土)~10(月・祝)の3日間、開催されます。

今年のテーマは、『-シン技術でつくるわたしの宇宙- 心( シン)未来への出発』。

昨年、講演された植松電機の植松社長が、今年はロケットを打ち上げる企画をされるそうです。

なぜロケットを?と思いますよね。

実は、今回打ち上げ予定のこのロケット、サイズは2mほどですが、構造や仕組みは、本物のロケットと同じだそうです。そのロケットが、本物さながらに空に打ち上げられる。こんな機会、なかなかないですよね。ちょっとワクワクしませんか?

この企画を通して植松さんが伝えたいこと。それは、多くの大人は、とっくにあきらめてしまっているかもしれない「夢は叶う」という実感、だそうです。

これは、 Dignity2.0国際カンファレンス 全体の主旨にもつながります。

誰もチャレンジしようとしてこなかった、不可能だと思われてきたことへのチャレンジ。

でも、そこに到達する道具はある。だから、あきらめさえしなければ、きっと叶う。

それが、 Dignity2.0国際カンファレンスを昨年に引き続き開催する、私たちの思いでもあります。


公式ホームページに記載されている、このカンファレンスのコンセプトは以下の通りです。

Dignity2.0ムーブメントとは

2050年人類滅亡の危機が叫ばれる背景に

1.気候変動による環境破壊の危機
2.SDGsを掲げるも進展がみえない持続不可能な危機
3.AI活用による尊厳破壊の危機
4.貧富格差による共同体破壊の危機
5.人間関係が築けないことによる少子高齢化の危機

があります。これらの危機を解決できるイノベーションが必要です。

それを、教育、経済、政治、文化芸術に対して、何をどのように変化させるべきかの「革新的価値」を提供するために研究していくのが『Dignity2.0ムーブメント』です。

それらの危機に対して、「革新的価値」を提供するための研究発表の場が『Dignity2.0国際カンファレンス』です。

Dignity2.0国際カンファレンスでは、1日目は教育、2日目は経済、3日目は政治、文化芸術のジャンルで研究の発表、討論、翌年へつなげていくイベントを開催しています。

引用元:2022開催日程&概要 – 2022年 Dignity 2.0 国際カンファレンス 3Days in 北海道



ロケットの原理が発明されたからこそ、そして、何度もその打ち上げに命がけでチャレンジし続けた人たちがいたからこそ、人は宇宙に飛び立つことができ、月面に着陸することができました。

今、解決が難しいと思われている、上記5つの危機も、このカンファレンスで語られる「革新的価値」があるからこそ、それを使ってあきらめずにチャレンジし続ければ必ず、すべての問題は解決に導くことができる、そう言い切って、昨年に続き今年も開催されるのがこのDignity2.0国際カンファレンスです。

今年も、3日間で様々な企画が出展されます。

タイムテーブル – 2022年 Dignity 2.0 国際カンファレンス 3Days in 北海道

今年のカンファレンスの詳細は、こちらになります。興味のある方は、ぜひ一緒に参加しましょう。そして、北海道にお住まいの方は、オフライン会場でのロケット発射の瞬間を体験してみることをお勧めします。

2022年 Dignity 2.0 国際カンファレンス 3Days in 北海道 – 10月8日~10日 ヒルトンニセコビレッジでオフライン/オンライン/メタバースでトリプル開催!


今日も、読んでくださってありがとうございました。

武士道を読んで。ー第十四章 婦人の教育及び地位ー

mountain covered by snow

新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第十四章。

この章は、婦人・女性への教育と地位、つまり「女性と武士道のつながり」について書かれています。

一番心に残ったのは、武士道の中では、男性よりは女性の地位は低いもの、武士道は男性中心の精神性だった、というイメージが覆った点でした。

確かに、武士と言えば戦う人、戦うと言えば一般的に男性をイメージしがちです。

ですが、女性もなぎなたや護身術を習い、また、音楽や舞踊や文字を学ぶことは当然だったそうです。

それは、家庭を守る中心が女性(母)だからであり、家庭を健やかに保つ、そして守るためには、夫人は、死もいとわず命を捨てる覚悟で挑む。

家の外では主君と臣下の関係が、家庭の中では主人と妻の関係として、とても美しいシステムが連続二段階のような形で、できていたんじゃないか、と感じました。

他の章でも出てきたように、武士道での主君と臣下の関係は、ただ隷属するのではなく、もし主君の行いが天下の大道に反するものであれば、身をもってそれを制するというものでした。その精神が、夫と妻の関係にもあった、ということです。

さらに、家庭での子供の教育は妻に任されていた、ということですから、幼少期から日常で培われる武士道の精神は、母親からのものが多くを占めていた、と言えます。

地位に関しても、単純に比較できるものではなく、家の外では男性、家庭の中では女性、と、場面によって違うから一概には言えない、という見解でした。

夫婦で一体、という個人主義の国には見られない考え方が、「身内をほめることはしない」ということに反映されていて、それは夫もしくは妻を、自分の一部として認識しているから、という内容にも納得でした。

女性も実は、武士道という精神性の一部をしっかり担いかつ受け継いでいることを発見し、実感できる章でした。

今日も読んでくださってありがとうございます。

戦後77年目の夏

blossom blur close up dandelion

今年は、太平洋戦争が終わり日本が敗戦してから、77年目となります。

1945年8月15日は、日本がそれまで一番大事にしてきた「何か」を手放した日。

そこから7年間のGHQによる占領が始まり、あらゆる言論統制が敷かれていたと聞きます。

一般人の郵便物の検閲まで、徹底的に統制されていたようです。

さらに、ラジオ番組では、一般の日本人が如何に事実を正しく知らされないまま、軍部に騙されていたか、といったことを暴くような番組が、自然な形で毎日流れ、大衆は自然に自然に、「日本は、なんて馬鹿なことをしてしまったんだろう」と思うようになったと。

敗戦国ですから、戦勝国による思想統制は当たり前のように行われたでしょう。

さらに、東京裁判では、戦争とは関わった国々にそれぞれ理由があるとわかっていながら、歴史上はじめて日本だけが「戦争」という「犯罪」を犯した「国家」という烙印を押されました。パール判事という方、一人だけが、その判決に反対した、という話は有名です。

それから77年目。

7月7日の七夕の翌日、日本全体がショックを受ける大きな事件が起こりました。

まだ、事件の全容は解明されていませんが、この日本で、こんなことが起こるなんて、日本人も、世界中の人も、だれも予測してはいなかったと思います。

今、報道されている情報だけ見ても、犯人は一般の人、しかも現代社会を象徴するような立場の人の様にみえます。

そんな人が、一国の政治的リーダーを、一発で死に至らしめるというのは、どういうことなのか。

この出来事が、今、この日本に投げかけていることはどんなことなのか。

そして昨日は参院選がありました。

この国のことを、今まで以上に深く考えた人も多かったんじゃないかと思います。

ただ、結果としては自民党の圧勝。与党の圧勝。

大きく流れを変えるまでの結果には至らず、という印象です。

政治のことは話さない、信条については話さない、深い話はしない。

戦争に負けてから、この社会について、国について熱く語ることは、日本人にとって暗黙裡にタブーとされてきたと思います。

ですが、

これからの日本の行く末を、そして日本の現在地を、一人一人が自分の国のこととして考えるべきときに来ている、ここ数日はそんな風に感じます。

困っていること嬉しいこと、悲しいこと問題だと感じていること、当たり前に当たり前のことを、人目を気にせず、罪悪感なく安心して、何でも話せる雰囲気づくりを、どこでもいつでも、まず私自身から、チャレンジしていきたいと思います。

変化は、一番些細にみえる事から。

武士道を読んで。ー第十三章 刀・武士の魂ー 

mountain covered by snow

新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第十三章。

この章は、武士の魂である刀、について書かれています。

今回、これを読んで初めて、本当に武士にとって刀は「魂」なんだと理解しました。

なぜならば、

まず、武士は5歳になると、おもちゃの刀ではなく、「真剣」を与えられ、外出の際は必ずそれを携える、ということ。

さらに、身分を示すものでもあり、それを持つと同時に「自尊」と「責任」が伴う、ということ。

忠義や名誉の象徴でもあり、誤って跨いでしまうなどもってのほか、つまり、刀は武士にとって自分の「分身」でもあり、魂が宿っているものとして「呼び名」までつけられている。

神社には刀が奉納されていることも多いように、それは、ただ武器としてではなく、刀鍛冶は、霊感をもって芸術作品として刀を創作する、とありました。

だからこそ、刀は、崇拝の対象にもなったり、今でも国宝級の刀が大切に受け継がれていたりするのですね。

さらに、むやみやたらと抜くものではなく、正当な使用を求められ、濫用は×、と認識されていたそうです。

その事例として、勝海舟の話がとても印象的でした。

幕末の騒乱期、暗殺の対象に何度もあったであろう勝は、決して刀を抜かなかったそうです。刀を抜かずに、いかにして問題を解決するか。勝海舟に魅了され、180度の方向転換をした坂本龍馬の話は、あまりにも有名ですが、

本当の刀の遣い方は、そういうことなのでしょう。

決して抜かずに、目的を達成する。

誇りや、アイデンティティ、精神性の象徴。それが刀。

心が一番美しく、緊張感をもった目に見える形として現れたもの。

それが武士にとっての刀の本質なのかもしれません。

さて、現代の武士たちが、刀の代わりに持つとしたら、何を持てばよさそうでしょうか?

今日も読んでくださってありがとうございます。

武士道を読んで。ー第十二章 自殺および復仇の制度ー

mountain covered by snow

新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第十二章。

この章は、『自殺および復仇の制度』について書かれています。

武士の自殺といえば、言わずと知れた「切腹」のこと。

復仇(ふっきゅう)とは、あだうち、かたきをうつこと、を指しています。

この章は、かなり強烈でした。

切腹に関しては、実際にその場に立ち会った外国人が記した内容の記載もあり、物語とは違う事実の記述は、今までどんな映画やドラマで見た切腹よりも、とても強い印象を受けました。

そして、武士の切腹という行為には、人間が表現しうる精神性の、究極の姿、まるで【肉体よりも精神が勝ることを体現する姿】が映し出されているように感じました。

そして同時に、そこには「武士の哲学」というものが凝縮されているようにも感じました。

実際に、切腹は「最も高貴なる行為」とみなされていたそうです。

それは、あるときは罪を償う行為であったり、またあるときは、潔白を証明する行為であったとのこと。

腹部には霊魂が宿ると考えられていたため、「腹を切る」ということは、霊魂が汚れていないことを、自ら開いて示す行為でもあったようです。

切腹を命じられた兄弟が、8歳の子供でさえ、兄たちのやり方に倣い、静かに切腹するという記述に、武士とは、生まれた時からどれだけ高い精神性を教育されているのか、と驚きました。

最後の一人になるまで、大切なものを守るため、命を賭して戦う。アメリカが恐れたのは、その日本人の精神性だったと思います。

だからこそ、アメリカは日本に徹底的な空爆をし、原爆を2つも落とした。

そして、日本は敗戦を選択しました。

あれから77年。まもなく夏の盛り。終戦記念日がやってきます。

あのときの精神性は、すっかり失われてしまったのでしょうか?

武士道精神は、今でも私たちの生活のあちこちに残っているのを感じます。アニメや映画や、生活習慣や、日本人が、日常で当たり前につかう口癖のなかに。

今日も読んでくださってありがとうございます。

武士道を読んで。ー第十一章 克己ー

mountain covered by snow

新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第十一章。

この章は、『克己』について書かれています。

武士は「喜怒色に現さず」がよしとされ、感情を表にだすことは、男らしくないこと、と思われていたようです。

例えば、親だったら通常子供に対して「こうしたい」「ああしてほしい」等のいわゆる「親心」の感情を出すことは「弱さ」とされる。

何かに励んでいる忙しい子供には、あえて臨終を知らせなかったり、とくに父親が人前で、自分の子供を抱いてかわいがる、等は良しとされなかったり。

とにかく武士は「自制心」というものを日常でとことん鍛えられている。

私たちの日常でも、道徳的な感覚としてそれはあちこちに残っていて、「一番苦しいときこそ笑顔で」などは、様々なドラマや、親からの教え、学校の先生の講和等々にちりばめられていたように思います。

感情をみだりに見せないのが美しいとされる国民性。

自制するからこそ、文学(詩歌なのの表現)では、繊細な感情表現をするようになったのかもしれません。

以前、韓国出身の令和哲学者ノジェス先生から、「韓国では、感情を出すことが美しいとされている。」

と聞いた時は、心の底からびっくりしたのを覚えています。

大げさな感情表現をする隣国の国民性を、実は私はそれまで奇異な目で、しかもどこか嫌悪感さえ感じつつみていましたが、

感情を出すこと/出さないこと、にもその国が培ってきた歴史的な文化や背景が表れているのだと理解できてから、偏見はなくなりました。

そして、日本については、どれだけ心にストイックな国民なんだろう??としみじみ感じました。

心(ここでは感情、の意)の制御を、世界一トレーニングしてきたのが日本人と言えると思います。「心感覚」をマスターするために、準備されてきた国。

今日も読んでくださってありがとうございます。

武士道を読んで。ー第十章 武士の教育および訓練ー

mountain covered by snow

新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第十章。

この章は、『武士の教育および訓練』について書かれています。

この章で心に残ったのは、知識は武士にとっては付属物であり、重要なことは行動である、というくだり。

武士は、本質的に行動の人。

ですから、そこに従って、教育・訓練の項目がありました。

主なものは、撃剣、弓術、柔術もしくは柔ら、馬術、槍術、兵法、書道、倫理、文学及び歴史等。

ここに、数学が入っていないのは、金銭に執着すること(儲けること、蓄財すること等)は、賤しいこと、という考え方があったためのようです。

ですから、貨幣の計算は下役人の仕事だったとか。

士農工商の身分制度にもそれが表れていますね。

ですから、武士の世では、諸外国に比べて公吏は腐敗から自由で(時代劇では必ず悪代官が登場しますが)、日本に拝金主義が芽生えたのは、明治以降。

武士を教える師についても、生徒にお金は要求しないことが通例で、清貧に徹し、神聖な仕事として尊敬を集めていたようです。

今の日本人は、武士とは反対に、行動よりもどれだけ勉強ができるか、偏差値が高いか、という知識の方が重視されているように感じます。

体を動かす教科は体育のみ。そして、理数系に秀でた人の方が就職にも有利で、給料も高く収入も多い。といったイメージもあります。

ただ、「頭でっかち」と言われるように、心技体のバランスが悪い人材は、結局仕事をこなすときに柔軟な判断ができずに、不都合が生じつケースも多くあります。

頭でっかちに偏りやすい現代人、日常でも、なるべく「行動」を重視してバランスをとっていきたいものです。

今日も読んでくださってありがとうございます。

揺るがない安心感を手に入れる道をご案内します。

white smile cutout signage on table

こんにちは。空豆です。このブログを読んでくださって、ありがとうございます。

突然ですが、私のビジョンは、否定や怒りのない、優しく安心できる社会・関係性をつくることです。

そのために、ゆるがない安心感を手にれる道を案内する「安心トランスフォーメーションメソッド」を開発・提供しています。

なぜ私が、これをやろうと思ったのか?

それは私の幼少期に遡ります。

幼少期の私は、母に怒られた記憶しかないくらい、厳しい母のもとで育ちました。

一番強く記憶に残っているのが小川事件です。

それは4~5歳の頃でしょうか、

家の裏にあった小さな川に落ちてしまったときのことです。

幸い、近くにいた祖父に助けられたのですが、母からは激怒され、

ずぶ濡れのまま玄関先に立たされた、という出来事がありました。

その時、着ていた洋服も覚えているくらい、鮮明な記憶です。

川に落ちた恐怖よりも、母に怒鳴られたことの方が強く記憶に残っているくらい、ひどいショックを受けました。

この時、私は、溺れずに助かったというのに、喜ぶどころか激怒する母に恐怖を感じるのと同時に

「母にとって私は、いらない存在、生まれてこない方がよかった邪魔な人間なんだ」と感じました。

人を怒らせると、恐怖と共に耐えられない心の痛みを経験することを覚えた私は、

とにかく母を怒らせないように、とても慎重に気を付けて「良い子」を全うするようになりました。

でも、怒らせないようにと必死に考えてやったことが逆に裏目に出て、さらにひどく怒られる、といったことを繰り返し経験し、

その結果、私は常に、その後の人間関係において

「相手を怒らせないように常に慎重にふるまわないとならない。でも、どんなに気を付けても最終的には、結局怒られ否定され、自分はこの世界に必要のない存在だと思い知らされる」

そんな、世の中や人生・人に対する終わらない恐怖と、絶望的なあきらめに似た感情に、無意識的にずっと苦しめられてきました。

これは学校生活・社会人生活で、非常にプラスに働く側面も多くありました。

絶対に怒らせないように人間関係をつくるため、表面上はそつなく見える私は、「上司にも部下にも同僚にも、人当たりがよく信頼できる良い人」と評価されました。

さらに、怒られないよう何事も先回りして考える習慣がついていたため、人より早くかつ細かいことにもいろいろ気が付くので「慎重で漏れがない完璧な業務スタイル」はサラリーマン生活では、さらに信頼され評価される要素になりました。

でも、実際は、人間関係でも仕事でも、心の中はいつも緊張状態で、完璧にこなしているつもりでも、不慮の事故の様に、たまに起こってしまう失敗や叱責に対するショックや落ち込みは、年々ひどくなる一方でした。

次、もしショックなことが起こったら、私は一体、立ち直れるんだろうか?

本気で自殺したくなるんじゃないだろうか?

と、そこまで心配するようになっていた時です。

nTech(エヌテック)という、認識を変化させる技術に出会いました。

その出会いによって、人生で初めて、心の底からの安心感というものを得ることができました。

それは、nTechによって、認識のオールゼロ化が起こったからです。

もう少し詳しく言えば、人間共通の脳の仕組みと心の働きを知り、その仕組みに沿って自身の認識アルゴリズムが今ここどのように働いているのか、その全体像が見えました。そして、それまでの認識をオールリセットして、新しい認識をゼロ状態からどのように形成すればよいか、もわかり、

そもそも、あの小川事件のときに、「母に怒られ、母にとって自分はいらない人間だ」と思ってしまった、そのこと自体が、

幼かった私が、ひとりで勝手にそう思いこんでしまった「私独自の解析(リテラシー)だった」ということがはっきりと理解・納得できたからです。それによって、私の認識のベースは、恐怖から安心へと大きくシフトしました。

さらに、今ここで自身の認識がゼロになりさえすれば、どんな相手であっても「100%理解できる」ことに確信を持つことができ、

その結果、それまで、相手に怒られないようにと、ただただ必死で頑張り続けた私の人生は終わりを告げ、代わりに、相手を理解し、相手に寄り添いながら一緒に問題を解決していく、そんな人生へと大きく変化しました。

そうなったことで、その後はさらに1:1の信頼関係をベースに、数人~数十人、さらに百人規模の様々なプロジェクトのマネジメントも任されるようになりました。

これは、とかくズレてしまいがちな、リーダー(経営者)の思いと、社員の思い、その双方に寄り添い、両者の「間の役割」をするマネジメントを行うことで、お互いの疎通が円滑な状態をキープでき、プロジェクト全体を安定して目標達成(納期や成果物、達成感も含めて)に導くことが可能になったためです。

そんな私が今、この「安心トランスフォーメーションメソッド」を提供しているのは、

かつての私と同じように、「人に怒られることに何よりも強いストレスを感じ、その結果、どうしても相手に合わせて頑張り続ける人生になってしまう。でも、そんな人生は終わらせて、心の底から安心して信頼できる関係性を自分からつくれるようになりたい。でもその道がわからない・・・。」そんな人に向けて、

あきらめなくていい、絶対的な安心感から常に始めることができる道がある、と伝えたいと思ったからです。

そんな私が、今後やりたいことは、言いたいことが何でも言えてかつ、怒りや恐怖・否定が存在しない、二度と傷つけあうことができない笑いにあふれた優しく、温かい絶対的な安心感を土台に、お互いがお互いを全力で応援し合えるつながりを広げていくことです。

興味のある方、気になる方は、まずはぜひ、空豆が主催する各種イベントやワークショップにお越しいただくか、お試しセッションをお気軽にご利用ください。

お会いできることを楽しみにしています。

武士道を読んで。ー第九章 忠義ー

mountain covered by snow

新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。

今日は第九章。

この章は、『忠義』について書かれています。

この章で一番心に残ったのは主君と親子、どちらをとるか、の基準。

武士道は、迷わず、忠(つまり主君)をとる、とあります。

事例として、菅原道真の家臣の「忠義」がとりあげられていました。

親子よりも、主君への忠義を優先する、そのために、家族が犠牲になったとしても、親も子も、その犠牲を潔く受け入れている、そんな事例でした。

忠臣蔵にも通じる姿勢態度ですね。

そして、この忠義とは、主君にすり寄ったり、ただイエスマンになって言うことを聞く、というのとは違う、ということも最後に強調されていました。

どこまでも個の利益ではなく、公の利益を優先する姿勢。

もしも主君が天下の大道に逸れてしまっていると感じたときには、勇気をもってこれを正し、たとえそれが主君の機嫌を損ね切られたとしても本望。それが武士のとる道、とあり、

それを思ったときに、昔見た時代劇のいくつもの場面が浮かびました。

悪いことをする殿様や悪代官に立ち向かって、切られてしまう家来たち。(それを最後に遠山の金さんや大岡越前ら、水戸黄門が見事に成敗するんですけどね(笑))

私たちの世代は、時代劇で武士道を自然に学んでいたのかもしれません。

忠とは「中心」と書きます。

誰か、ではなく自らの中心に従って生きること。自らの中心は、宇宙の仕組み・法則ともつながり、全体を動かすその動きともつながる、その中心。

それが忠義の本質だと感じました。

私も、常に「忠」に忠実でありたいものです。

それが一番シンプルな生き方ですね。

今日も読んでくださってありがとうございます。