新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。
今日は第十三章。
この章は、武士の魂である刀、について書かれています。
今回、これを読んで初めて、本当に武士にとって刀は「魂」なんだと理解しました。
なぜならば、
まず、武士は5歳になると、おもちゃの刀ではなく、「真剣」を与えられ、外出の際は必ずそれを携える、ということ。
さらに、身分を示すものでもあり、それを持つと同時に「自尊」と「責任」が伴う、ということ。
忠義や名誉の象徴でもあり、誤って跨いでしまうなどもってのほか、つまり、刀は武士にとって自分の「分身」でもあり、魂が宿っているものとして「呼び名」までつけられている。
神社には刀が奉納されていることも多いように、それは、ただ武器としてではなく、刀鍛冶は、霊感をもって芸術作品として刀を創作する、とありました。
だからこそ、刀は、崇拝の対象にもなったり、今でも国宝級の刀が大切に受け継がれていたりするのですね。
さらに、むやみやたらと抜くものではなく、正当な使用を求められ、濫用は×、と認識されていたそうです。
その事例として、勝海舟の話がとても印象的でした。
幕末の騒乱期、暗殺の対象に何度もあったであろう勝は、決して刀を抜かなかったそうです。刀を抜かずに、いかにして問題を解決するか。勝海舟に魅了され、180度の方向転換をした坂本龍馬の話は、あまりにも有名ですが、
本当の刀の遣い方は、そういうことなのでしょう。
決して抜かずに、目的を達成する。
誇りや、アイデンティティ、精神性の象徴。それが刀。
心が一番美しく、緊張感をもった目に見える形として現れたもの。
それが武士にとっての刀の本質なのかもしれません。
さて、現代の武士たちが、刀の代わりに持つとしたら、何を持てばよさそうでしょうか?
今日も読んでくださってありがとうございます。