新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。
今日は第九章。
この章は、『忠義』について書かれています。
この章で一番心に残ったのは主君と親子、どちらをとるか、の基準。
武士道は、迷わず、忠(つまり主君)をとる、とあります。
事例として、菅原道真の家臣の「忠義」がとりあげられていました。
親子よりも、主君への忠義を優先する、そのために、家族が犠牲になったとしても、親も子も、その犠牲を潔く受け入れている、そんな事例でした。
忠臣蔵にも通じる姿勢態度ですね。
そして、この忠義とは、主君にすり寄ったり、ただイエスマンになって言うことを聞く、というのとは違う、ということも最後に強調されていました。
どこまでも個の利益ではなく、公の利益を優先する姿勢。
もしも主君が天下の大道に逸れてしまっていると感じたときには、勇気をもってこれを正し、たとえそれが主君の機嫌を損ね切られたとしても本望。それが武士のとる道、とあり、
それを思ったときに、昔見た時代劇のいくつもの場面が浮かびました。
悪いことをする殿様や悪代官に立ち向かって、切られてしまう家来たち。(それを最後に遠山の金さんや大岡越前ら、水戸黄門が見事に成敗するんですけどね(笑))
私たちの世代は、時代劇で武士道を自然に学んでいたのかもしれません。
忠とは「中心」と書きます。
誰か、ではなく自らの中心に従って生きること。自らの中心は、宇宙の仕組み・法則ともつながり、全体を動かすその動きともつながる、その中心。
それが忠義の本質だと感じました。
私も、常に「忠」に忠実でありたいものです。
それが一番シンプルな生き方ですね。
今日も読んでくださってありがとうございます。