「思惟」とは、辞書で引いてみると
1 考えること。思考。「思惟の方法」「心中思惟」
デジタル大辞泉より
2 哲学で、感覚・知覚と異なる知的精神作用。
とあります。
令和哲学カフェを見ていて、そして、令和哲学者NohJesu氏のコメントを聞いて、安心・納得・共感するのが、令和哲学は、「体感ではなく、思惟で到達するもの」という点です。
そもそも、哲学とはそういうものなのかもしれませんが・・・。
いわゆる、仏教など、悟りを開く等と言われますが、そこでは「体感」を重視するコメントが多く聞かれます。
体感は、ひとりひとりの主観に基づくものですから、否定はしませんが、どうしても「共有することが非常に難しい」という難点があると思います。
いわゆるスピリチュアルで、何か特別なものが見えたり、コメントする側の人に対して、盲目的に信じてしまって依存が生れたり、逆に怪しげにみえてしまったり、そういったことも、
本人にしか分からない体感に基づくものなので、共有が難しい、他の人が再現するのが難しい、根拠を語りにくい、という点にあるんじゃないかと思います。
その反面、思惟で到達できる、つまり、考えて考えて、疑って疑って、それでも、なるほど、と納得せざるを得ない論理展開をたどって出た結論であれば、必ず、みんなが到達できて、共有できるものだと、安心できます。
脳は因果論が得意ですから(○○だったら××、という思考展開)、因果論をたどってたどって、そして到達した結論で、脳の全ての因果論を、静かにする作用があるとしたら、どうでしょう。
これは、なるほど!となった人には分かりますが、自らの思惟の力で到達できる、びっくりするような境地です。
自らの考えによって、自らの考えを統制できる、考えの外まで行くことができる。
それを案内してくれたのが、私にとっては、令和哲学であり、令和哲学者NohJesu氏でした。
だれもが到達できる論理展開ですから、誰でも考えの外に行けますよ、と令和哲学について聞かれたときにはお話しています。
ただ、その前に、大事なことがあります。
考えの外まで到達するためには、まず、絶望と出会うことが必要だということです。
それは、例えば
・会社を解雇された
・大切な人を亡くした
・信頼していた人に裏切られた
・全財産を失くしてしまった・・・
というような体験・経験による絶望ではありません。そこではない、本当はなにが一番の絶望なのか、絶望を正しくイメージできること。そこからすべてが始まります。
日本がかつて、欧米との戦いに敗れ、いわゆる覇権戦争に負けた絶望も、体験・経験による絶望ですが、実は、正しい絶望に出会えば、体験・経験による絶望は、すべて消えていきます。
すべての絶望が消えて残る1点、それが、正しい絶望であり、
正しい絶望から、次の希望がスタートします。
今日も、読んで頂いてありがとうございました。
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