令和哲学カフェ、第3期が始まりました。
今期のテーマは「女性性哲学」。
そして、昨夜は、
「男性も妊娠・出産できる女性性とは、どういうことなのか?」
というテーマで、ディスカッションが行われました。
令和哲学でいう男性性、女性性は、とても独特です。でも、そこにはすごく納得感があります。
今までの男性性、女性性は、身体を中心にして語られてきた、いわば「空間的な」男性性・女性性でした。
令和哲学でいう男性性と女性性は、今までと、今ここから。今までの人間の全ての歴史文明が男性性だった。そして、今ここからは女性性、というように、「時間軸で」みています。
男性性の文明を脳を中心にしてきた文明、そして、女性性の文明は心を中心にする文明、ともいえます。
今までは、獲物という敵・目標に向かって団結する「狩の文化」、これからは、すべての観点を鍋に溶かして美味しい料理に仕上げる「料理の文化」、という表現もありました。
狩りの文化は、敵に対しては団結できるけど、内輪もめが終わらない。敵を倒しても倒しても、また新しい敵が生まれる。本当に人類の歴史を「言い得て妙」でした。
対して、料理の文化は、敵をつくって団結するのではなく、敵も味方も、鍋の中に全部が解けてなくなってしまって、ワクワクするような、まったく新しいものが生まれる。
まるで、絵本「ぐりとぐら」みたいです。
大きなホットケーキをつくって、森のみんなで美味しく楽しく食べる。
男性性と女性性のイメージを使うと、令和哲学の概念がとてもイメージしやすくなるように感じます。
そして、本当の女性性に行くためには、「究極の絶望」に行くこと(但し、体験・経験ではなくイメージで)が、とても大切で、すべての苦しみ悲しみを超えたときに、「究極の希望」に行ける、というコメントがとても印象的でした。
77億の絶望を全て集めた究極の絶望、その絶望でひとつになること。それが、実は究極の希望のスタート。
今日も読んで頂いて、ありがとうございました。