武士道を読んで。ー第十七章 武士道の将来ー
新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。
今日は第十七章。とうとう、最後の章になりました。
この章は、武士道の将来、つまり、今後「武士道」はどうなっていくのか?について書かれています。
そのことが、ヨーロッパの騎士道との対比で語られていました。
封建制度、つまり武力によって国を治める制度がなくなってから、騎士道はキリスト教会によってその寿命を延ばしたけれど、
日本の武士道の場合は、それに相当する宗教はないので、なかなか難しいだろうと。
ただし、全体を通して述べられているのは、形としての武士道は失くなっても、その意志や本質、神聖なる本能は残って、人間の様々な行動や生き方の中に広く浸透していくだろうという予測を込めた願いでした。
他にも印象的だったのは、武士道は、主に治者や公人や国民の道徳的行為に重点を置いていたのに対して、キリスト教は個人のこと、個人的にキリストを信じる人に関する道徳を説いているので、
個人主義が広がる時代には、キリスト教的道徳が勢力を増すだろうとあり、
まさにそれは、現代を表していると感じました。
地球上に個人主義が蔓延して、その良さを通り越して問題点が多く語られるようになった現代には、地球に生きる一人として、つまり「公人」としての規範である武士道の理念に、もう一度、光を当てるタイミングに来ていることを、改めて強く感じます。
今回、この書籍を約8か月に渡って少しずつ読み進めてきて感じたのは、武士道が今ここ、私たち日本人の中に、その日常の中、あちらこちらに今も確かに息づいている、という点です。
そのことが、戦後77年を経て、令和のこの時代に、世界の基準となる精神性として、武力ではなく、心の力として、人と地球が持続可能なシステムとなるための基本の教育として受け入れられていくことを期待しています。
今日も読んでくださってありがとうございます。
※9/12(月)より、令和哲学カフェでは『SAMURAI哲学』と題して、日本の侍たちの哲学を取り上げています。その中で、nTech講師でもある塩見典子さんが、この新渡戸稲造の「武士道」を取り上げて、解説していますのでそちらもぜひご視聴ください。
武士道を読んで。ー第十六章 武士道はなお生くるかー
新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。
今日は第十六章。
この章は、”武士道はこの先も生き続けていくのか?”ということについて書かれています。
次の2点が印象的でした。
一つ目は、武士道は簡単にはなくならない。その根拠。
二つ目は、歪んだキリスト教について(新渡戸稲造はキリスト教徒です)。
一つ目について。いきなりの結論ですが、その根拠がいろいろ述べられていましたが、とくに印象的だったのは、
フランスの経済学者シェイソン氏の計算によれば・・・というくだり。
「各人は、その血管の中に少なくとも西暦一千年に生きていた2000万人の血液をもっている」そうです。
経済学者の計算、というのがとても興味深い。
歴史文化によって一世紀にわたって多くの人の意識が実は血液の中に入り込んでいて(今風に言えば、DNAの中に刻み込まれていて)、そんなに簡単に消え去るものではない、ということでしょうか。
表面的には西洋化して変わったように見えても、無意識の99%は武士道という美しいものが私たちの中にしっかり根付いている、と思うと、安心と共になんだか嬉しい気持ちになります。
そして二つ目。歪んだキリスト教については、今、宣教師が伝えるキリスト教は、本来イエスが説いた純粋な内容からは離れてしまって、西洋人(アングロサクソン)的思惟妄想を含むと。
異教徒にとって、異教徒の歴史の脈絡を配慮しながらその人たちがつかっているイメージを用いて伝達されたなら、普遍的な要素として速やかに納得されるだろうに、と。
確かに、何度理屈を聴いてもまったく納得できなかったことが、日常でよく使われている単語やイメージ一つで「なるほど、それを言いたかったのね」と、スッと分かってしまうことがあります。
単語ひとつも、長い長い歴史を紡いできた先人そして宇宙自然があって、それが私たちのイメージのバックボーンとなって、すべてを引き受けて今ここ生み出されている奇跡のような一言。
そして、キリスト教徒であった新渡戸稲造は、キリスト教の本質と武士道が、根柢ではつながっていることを見ていたのだと感じました。
ただ、最後の一文は気になりました。
武士道の存続を脅かす勢力がある、というものです。
それが、予兆だけではなかったことは、私たちは既に知っています。
ですが、この章にも書かれているように、意識ではなくても、日常のあちらこちら、そして無意識には、しっかり存続している「武士道」があることをタイムマシーンがあれば、著者に伝えに行きたい、と感じました。
今日も読んでくださってありがとうございます。
※9/12(月)より、令和哲学カフェでは『SAMURAI哲学』と題して、日本の侍たちの哲学を取り上げています。その中で、nTech講師でもある塩見典子さんが、この新渡戸稲造の「武士道」を取り上げて、解説していますのでそちらもぜひご視聴ください。
武士道を読んで。ー第十五章 武士道の感化ー
新渡戸稲造の「武士道」を読んで、章ごとに、気づいたこと・感じたことを綴っています。
今日は第十五章。
この章は、「武士道の感化」について書かれています。
冒頭にあった、「まず武士階級を照らした倫理体系は、ときをふるに従い大衆の間からもその追随者を惹きつけた」という文章が印象的でした。
朝、まず山頂を照らした光がやがては山のすそ野にまで広がるように・・・という例えにあるように。
武士道は、最初は武士の階級を貫く倫理体系だったものが、大衆にも受け入れられ、それを模範として自らもそうあろうとし、老若男女が賛同したからこそ文化として根付いたものだったのだと感じました。
それが日本における武士道。
鎌倉幕府創設以来、武士が天皇を支えながら日本を統治するようになり、その700年近い歳月の間、とくに武士が治めつつも戦いがなくなった江戸300年間に、倫理規範として体系化され、庶民にもその規範に沿った生き方が根付いたのではないでしょうか。
「花は桜木、人は武士」
と言われたことからも、武士は全日本人の理想、ヒーローでもあったようです。
本居宣長の
「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花」
とにかく、武士を表すときに、セットでイメージされるのは桜。
薔薇のように華美ではなく、淡い香り。
でもその美しさや潔さ、そして、微かな中にもそれとはっきりわかるその香りが、日本そのものの心をあらわしていると言われれば、とてもしっくりきます。
「大和魂は柔弱なる培養植物ではなくして、自然的という意味において野生の産である」
という文章も印象的でした。
自然に、この日本に醸し出された魂、それが大和魂。
それを植物に例えれば、まさに、自然に山に咲いた桜。
誰に見せるためでもなく、ただ自然の中でありのまま毎年咲き続けるのが山桜です。
第二次世界大戦で大敗し、その後は世界の平和と発展のために、戦争犯罪国家の烙印を押されようとも、黙々と働き続けその利益を、世界中の国々に還元し続けた、まさに日本という国の魂をあらわしている、
そんな風に感じました。
今日も読んでくださってありがとうございます。
※9/12(月)より、令和哲学カフェでは『SAMURAI哲学』と題して、日本の侍たちの哲学を取り上げています。その中で、nTech講師でもある塩見典子さんが、この新渡戸稲造の「武士道」を取り上げて、解説していますのでそちらもぜひご視聴ください。
令和哲学カフェ 第551回(9/13開催分)では、新渡戸稲造の「武士道」を解説!(9/20まで無料で視聴できます)
【緊急】アルコール携帯キャンペーン
こんにちは。そらまめです。
先日、令和哲学カフェで、東京オリンピックの白熱議論(やる?やらない?最高のやり方、最低のやり方)がありましたが、その中で、
マスクに加えて、アルコールを携帯して、手が触るところはとにかく消毒、触った後も消毒して、生活防疫を徹底させよう、という発信がありました。
ウィルスの性質からみて「人間の手が触るところは、ウィルスがいるところ」。ウィルス感染は、とにかく手から。
だから、手を徹底的に消毒、手が触ったところも徹底的に消毒。
そうすれば、ウィルスは統制可能になります。
私たち一人ひとりにもできる対策、広げたいものですね。
医師の観点からも、その対策がとても有効である旨が示されていますので、長岡美紀先生のFacebookから、そのことが記載されている6/26の記事を紹介します。
・・・ワクチン頼りではない人間に備わっている真の力、自然免疫。まずはそれを強化すること。そして次に、エンベロープウイルスであるコロナウイルスへの直接的な対処は、アルコールに弱いという特徴を利用すればいいのです。あちらこちらにアルコールを設置し、また国民一人一人が携帯用のアルコールを持参して回る。今まさに国民全員がマスクを着けているように。飛沫感染と接触感染が主な感染経路のため、手と触ったところをアルコール消毒して回れば、コロナウイルスは感染力を失っていく。「そんな微々たることが・・・」そう思うかもしれません。しかし一人一人の微々たる働きが大きな結果を生むのです。アルコール消毒は有効です。
引用元: 長岡 美妃 | Facebook
東京オリンピックを境に、この対策方法が有効な事例として日本から世界に広がれば、世界中が、ウィルスとの戦い方がわかるし、人間がウィルスに怯えずに、勝利していく道が切り開かれていきます。
ぜひ、一緒にアルコール携帯キャンペーン、やりましょう!
<<拡散大歓迎です!!>>
オリンピック、やると決めたならば・・・
オリンピックの開催、圧倒的に反対意見が多いと報道される中、開催が決まりましたね。
しかも、無観客ではなく、1万人を上限に観客を入れて開催するとの判断。
テレビ報道も、開催を盛り上げる雰囲気に、ここ数日で変わってきた気がします。
来月の今日は、いよいよ開会式。
ワクチン接種のスピードも、諸外国と比べてかなり遅い日本ですが、この状況をみなさんはどう思われますか?
今から1カ月前、私もオリンピックについては、こんな記事を書きました。
そこから1カ月たって、いよいよ本格的に開催が決定したわけですが、まだまだ賛否両論あって、複雑な感情や、さまざまな意見をお持ちの方、多いんじゃないかと思います。
でも、やる、と決まった今ここですごく大事なのは、
開催後の展望があるのかどうか
ということじゃないかと思いました。
開催後の未来に、希望のイメージがないまま開催しても、終わった後に残るのは、祭りの後の空虚感と、更にます、経済や体や心の健康への出口のみえない不安感、そんな風に感じます。
日本がどんな姿勢でオリンピックを開催して、その後の未来、世界の展望をどうメッセージできるのか。
令和哲学カフェでは、日本から新しくはじまる産業を「英雄産業」として打ち出していますが、
今夜はそのスペシャルバージョンが配信されるそうです。
オリンピック後の日本、その希望のイメージとは?
今夜が楽しみです。
誰もが実はヒーロー(英雄)だった!?
今日は、誰もが実はヒーロー(英雄)だった!?というテーマで書いてみたいと思います。
突然ですが、ふと思い出しました。
昔、「あんたが大将!」という歌がありました。
お!もしや「誰もがヒーローだよ!」と既に歌っている歌だったのか?
と思って調べてみたら、全然違ってました(汗)
どちらかと言えば、
”人生そんなに簡単に上手く行かないけれど、今宵だけは「あんたが大将!」と持ち上げて、いい気持にさせてやるよ!”といった内容・・・
40年以上前の海援隊の歌でした。でも、このころの武田鉄矢さん、若くてかなり反骨精神がある目をしていますね。
はい。雑談でした。
でも、誰もがヒーローになれる、あなたもヒーローなんだ、といわれても、
「何を持ち上げようとしてるんだか」
「おだてたって何もでないよ」
「単なる理想論でしょ?」
そんなふうに思いやすいですよね。
誰もが実はヒーロー(英雄)、なぜこれを書こうと思ったか、といえば、今、時代的にも、どんどん人間の存在意義が小さくなってしまっているからです。
昔は、尊敬される人、憧れの人、そんな分かりやすいモデルとなる人物がいました。大統領、政治家、先生、銀幕のスター、歌手、等々。
でも、時代は進み、価値観が多様化して、インターネットの普及やSNSの広がりによって、更に価値観はどんどんバラバラになり、どんな人物像を目指せば、多くの人にとって貢献でき、模範となるような生き方ができるのか、様々な情報に触れれば触れるほど、判断がつかなくなり、皆目分からなくなってしまったのが、今の時代です。
更に、AIの台頭により、人間の仕事は奪われ、多くの人は、ベーシックインカム、つまり配られたお金で静かに暮す、いわゆる「無用者階級」が量産される社会が、それほど遠くない未来に来る、と予想されています。
誰もが、自分とは何なのか?何のために生まれたのか?どこに向かって、何を目指して生きたらよいのか?そんな本質的な問いに答を持たない限り、「無用者」となってまで、何のために生き続けないとならないのか分からない、人間として、なんとも生きにくい世の中になるでしょう。
そんな時代だからこそ、自分のことをまず自分自身が、とても尊く、そして勇気をもって非凡なことを成し遂げる存在、つまりヒーローだと認識できることは、かなり重要ではないでしょうか。
では、どうしたら、「自分がヒーローだ」と思えるのでしょうか?
結論から先にいうと、だれもがヒーローであることを気づかせる、その役割をするのが令和哲学です。
哲学は、認識主体を啓発するもの。
今、あなたが見ている、聞いている、この現実画面は、認識の結果物、つまり認識対象です。
あなたの身体も実は、認識主体ではなく、認識対象になるのです。
これは、カントが既に18世紀に「純粋理性批判」で語っている内容です。
認識主体を啓発していった先には、カントでいえば「物自体」があり、そこに、「誰もが実はヒーロー」と言い切れる鍵があります。
令和哲学カフェでは、ヒーローたちが生み出す新産業、「英雄産業」についても語っています。多くのヒーローが、新しい概念を生み出し、新しい産業を興していく、そんな未来が語られています。
興味のある方は、ぜひご覧ください。
今日も読んで頂いて、ありがとうございました。
令和哲学は思惟で到達するもの。
「思惟」とは、辞書で引いてみると
1 考えること。思考。「思惟の方法」「心中思惟」
デジタル大辞泉より
2 哲学で、感覚・知覚と異なる知的精神作用。
とあります。
令和哲学カフェを見ていて、そして、令和哲学者NohJesu氏のコメントを聞いて、安心・納得・共感するのが、令和哲学は、「体感ではなく、思惟で到達するもの」という点です。
そもそも、哲学とはそういうものなのかもしれませんが・・・。
いわゆる、仏教など、悟りを開く等と言われますが、そこでは「体感」を重視するコメントが多く聞かれます。
体感は、ひとりひとりの主観に基づくものですから、否定はしませんが、どうしても「共有することが非常に難しい」という難点があると思います。
いわゆるスピリチュアルで、何か特別なものが見えたり、コメントする側の人に対して、盲目的に信じてしまって依存が生れたり、逆に怪しげにみえてしまったり、そういったことも、
本人にしか分からない体感に基づくものなので、共有が難しい、他の人が再現するのが難しい、根拠を語りにくい、という点にあるんじゃないかと思います。
その反面、思惟で到達できる、つまり、考えて考えて、疑って疑って、それでも、なるほど、と納得せざるを得ない論理展開をたどって出た結論であれば、必ず、みんなが到達できて、共有できるものだと、安心できます。
脳は因果論が得意ですから(○○だったら××、という思考展開)、因果論をたどってたどって、そして到達した結論で、脳の全ての因果論を、静かにする作用があるとしたら、どうでしょう。
これは、なるほど!となった人には分かりますが、自らの思惟の力で到達できる、びっくりするような境地です。
自らの考えによって、自らの考えを統制できる、考えの外まで行くことができる。
それを案内してくれたのが、私にとっては、令和哲学であり、令和哲学者NohJesu氏でした。
だれもが到達できる論理展開ですから、誰でも考えの外に行けますよ、と令和哲学について聞かれたときにはお話しています。
ただ、その前に、大事なことがあります。
考えの外まで到達するためには、まず、絶望と出会うことが必要だということです。
それは、例えば
・会社を解雇された
・大切な人を亡くした
・信頼していた人に裏切られた
・全財産を失くしてしまった・・・
というような体験・経験による絶望ではありません。そこではない、本当はなにが一番の絶望なのか、絶望を正しくイメージできること。そこからすべてが始まります。
日本がかつて、欧米との戦いに敗れ、いわゆる覇権戦争に負けた絶望も、体験・経験による絶望ですが、実は、正しい絶望に出会えば、体験・経験による絶望は、すべて消えていきます。
すべての絶望が消えて残る1点、それが、正しい絶望であり、
正しい絶望から、次の希望がスタートします。
今日も、読んで頂いてありがとうございました。
◆令和哲学カフェ|平日毎晩無料開催中!
そもそも、悩みとは、どこから生まれるのか?
今日は、悩みがうまれる原因について、書いてみたいと思います。
このブログでも、30代や40代の女性の悩みをご紹介してきましたが、私たちの頭の中には日々、いろいろな悩みが生れたり、消えたりします。
ひとつの悩みが解決したと思ったら、しばらくすると、また別の悩みが生れたり、
別の悩みと思っていたら、あれ?なんだか以前と同じことで悩んでる?私?
と気が付いたり。
人生は、そんな風に、次から次へと悩みが襲ってくる、そんなもんでしょ。
とあきらめの境地になったり。
私も、以前は、そんな「悩み」に明け暮れる日々を過ごしていました。
では、そもそも、この「終わりなく悩みが生まれる原因」とはなんでしょう?
悩み、というものは、シンプルに考えれば
【理想と現実のギャップ】
と言えます。
「こんなはずじゃない!」
と思うのも、「理想の状態」のイメージがあればこそ。
もしも、今が最高!といつも思っていれば「こんなはずじゃない」という言葉自体、うまれてきませんよね?
となりの芝生は青い。という言葉にもあるように、理想はそっち(隣の芝生)だ、ここにはない、と思ってしまう。
ここまで読んでみて、どうでしょうか。
そうかそうか。「となりの芝生は青い。」ついうっかり思っちゃったな。自分の芝生、自分の足元の幸せを、ちゃんと認識しよう!そんな風に思った方もいますよね。
でも、そう頭では分かっていても、なかなかやっぱり、自分の足元を幸せと、100%思えないのが私達人間です。
今ここ、今おかれている状況そのものを、丸ごと全肯定できたら、それはそれはいつも満たされている状態になれるし、スッキリしそう。でも、そんな方法、一体あるんだろうか?
そう思われる方がほとんどじゃないかと思います。
では、どうしたらよいのでしょうか?
この現実は相対世界。かならず「2つ」があります。
例えば、理想と現実。これも相対する2つ。
つまり、理想と現実のはざまをさまようよう、つまり理想と現実を行ったり来たりするように、そもそもできているのが、相対世界。
つまり、相対するものを一つにできない限り、この行ったり来たりは終わりません。
そのためには、まず、この相対世界が生まれる前、もともと「2」でなく「1」だった、その出発にもどることです。
出発に戻るための一番大切な第一歩。それは、今まで人間が当たり前に使ってきた「脳」、実は、この脳機能に、そもそも限界があったことを知ること。
悩みの根本原因を発見できることが、悩みをオールクリアするスタートになります。
フードロスについて、思うこと。
先日、「日本のフードロスは、年間800万トン」というニュースを見ました。
800万トン。とてつもない数字でイメージがわきません。
農林水産省の統計でみると、国民一人当たりが、一年間に食べる量は、458.9kg(1日当たり約1.3kg)。
800万トンを単純に割ると、なんと、約1750万人分の食料に相当する量が廃棄されていることになります・・・
なんという無駄。
少し調べてみたら、世界の食糧問題について、とても分かりやすく書かれているサイトがありました。
このサイトの中には、以下の記載もありました。
・世界では毎年、食用に生産されている食料の3分の1にあたる13億トンが捨てられています
https://worldfoodday-japan.net/world/
・たとえば、ハンバーガー1個に使われている小麦や牛肉を生産するためには999リットル=2リットルのペットボトル500本分の水が必要です
私たちは、どのくらいの地球上の資源を消費して、食料を得ているのでしょう。しかも、世界規模で見れば、その資源の1/3をただ無駄にしていることになります。
このままのライフスタイルを続け、人口が増え続けたら、以前から言われてきたことですが、人間によって地球環境は破綻するでしょう。それを防ぐために、地球は自浄作用に傾く。とすれば、地球が危機感から、人間の活動をストップさせるために新型コロナウイルスというものを生じさせた、といった解釈も納得できます。
では、私達人間は、今の当たり前のライフスタイルの、何を、どこから、どのように変えて行けばよいのでしょうか。
このライフスタイルが始まったのは、フランス市民革命、産業革命以降でしょう。
つまり、西洋でルネサンスが起こり、科学万能主義に人間の文明が切り替わったところから始まっています。
6/2の令和哲学カフェでは、科学技術の終焉と、哲学の時代のはじまりについてディスカッションが展開されていました。
科学とは何か?哲学とは何か?それぞれの役割とは何なのか?
科学と哲学がそれぞれが、対称性で語られ、非常に深まるものがありました。
科学技術を追求し続けてきた人類の生活は、ものすごく便利になり、いろいろなものが、簡単に安い値段で手に入るようになっています。ですがその反面、心は孤独な人が増え、ウィルスによって家の中に閉じ込められ、さらに人間よりも賢いAIまで登場してしまって、多くの人は無用者階級に落ちると言われています。
さらに、貧富の格差も含めて二極化はどんどん進み・・・。そのように、今、人類は完全に、あるべき方向性と行き場を見失っています。
人間を幸せにするはずだった科学技術が、人間をここまで追いつめている。
便利さを追求し続けたら、いつのまにか、なんだかとても心が不自由な世界になってしまった。
西洋哲学は、これまで、科学技術の後塵を拝してきました。なぜならば、飛躍的に発展してきた科学(数学・物理学)を包含して説明、整理整頓できる「哲学」が生れていなかったから。
令和哲学は、最先端の数学、そして物理学も、一つの数式と、シンプルなイメージを使って説明しています。人間とは何なのか、人間の認識メカニズムは、どこから、どのように生まれているのか、そして、目の前の現実・現象は、どのように成り立っているのか、それらを、明確に語っています。
だからこそ、脳機能の限界を語りながら、その脳を中心に発展してきた今までの全ての学問は、中途半端であると言い切って、基準点を脳の外、白紙に戻したところから、新しい認識方式でスタートしましょう、と伝えています。
哲学の役割は、今までのすべてにノーをすること。
時代をけん引できる、新しい哲学は、すでに日本から生まれています。
今日も、読んで頂いて、ありがとうございました。