なぜ私たちはこんなに生きづらいのか ―夏目漱石が100年前に書いていた「個人の不安」―

昨年末、世界最古の温泉と言われる道後温泉を訪れた際、
愛媛県松山出身の正岡子規や夏目漱石に触れる機会がありました。

道後温泉のお土産として盛んに売られていた「三色団子」は
夏目漱石の小説「坊ちゃん」に実際登場したということで
そのモデルになったというお店もありました。

そもそも夏目漱石の文学って、有名だけれど
何がいったいそれほどまでに文学的な価値があるの??
と不思議になって、調べてみたところ、初めて分かったことがありました。

生きづらさの正体を考えたことはありますか

「自由に生きていい」と言われる時代なのに、なぜか不安が消えない。
自分で選べるはずなのに、選ぶことが怖い。
そんな感覚を抱いたことはないでしょうか。

現代人の生きづらさは、性格や努力の問題として語られがちです。しかし文学史の視点から見ると、それはもっと大きな時代の変化の中で生まれたものだと分かります。

この記事では、日本近代文学の代表的作家・夏目漱石の作品を手がかりに、
「個人として生きることの不安」がどのように始まったのかをやさしく整理してみたいと思います。


近代がもたらした「個人」という生き方

江戸から明治へと時代が移る中で、日本人の生き方の前提は大きく変わりました。

それまで人は、家や地域、役割の中で生きる存在でした。
自分の立場や生き方は、ある程度すでに決まっていたのです。

ところが近代社会では、
「自分で選ぶ」ことが前提になります。

  • 何をするか
  • どう生きるか
  • 何を正しいと思うか

これらを個人が引き受けるようになりました。

自由が増えた一方で、拠り所も減っていきます。
この変化の只中にいたのが、夏目漱石でした。


漱石が描いたのは「出来事」ではなく「葛藤」

漱石以前の小説は、主に出来事を中心に展開していました。
何が起き、どう解決したかが物語の軸でした。

しかし漱石の小説では、外側の事件よりも、心の中の葛藤が物語を動かします。

なぜ人は迷うのか。
なぜ他者を信じきれないのか。
なぜ自分の気持ちさえ分からなくなるのか。

『三四郎』『それから』『こころ』に共通しているのは、
「個人として生きることの重さ」です。

読んでいると、大きな事件が起きなくても、人は深く揺れ動く存在なのだと気づかされます。


読みながら気づいたこと:不安は個人の弱さではない

漱石の作品を読んでいて印象的だったのは、
登場人物の迷いや不安が、特別な人の問題として描かれていないことでした。

むしろ、近代社会に生きる人間なら誰もが抱えうる状態として描かれています。

「自分で決めなければならない」
「自分の内面に責任を持たなければならない」

この条件そのものが、人を不安定にするのだと分かってきました。

そう考えると、現代の生きづらさも少し違って見えてきます。
うまく適応できていないのではなく、
そもそも時代の条件が、人に大きな負荷をかけているのかもしれません。

文学は解決策を与えてくれるわけではありませんが、
「何が起きているのか」を理解させてくれます。
それだけでも、心の重さは少し変わるように感じます。


個人の不安を超えて:nTechが示す新しい道

近代は、人を「個人」として目覚めさせました。
しかし同時に、個人が孤立する構造も生みました。

漱石はその始まりを描いた作家でした。
では、その先はどうなるのでしょうか。

認識技術nTechでは、
人間の認識そのものに目を向けます。

私たちは世界をどのように見ているのか。
不安や孤独は、どこから生まれるのか。

個人か共同体か、という対立を超えて、
認識の仕組みそのものを理解し、
あるべき姿への進化・変化を起こそうとするアプローチです。

漱石が描いた近代人の戸惑いは、
決して過去のものではありません。
むしろ今、私たち一人ひとりが引き受けているテーマです。

だからこそ、
近代の始まりを見つめた文学を、
これからの人間の方向性を見出すヒントとしてとらえ
思惟を深める価値があるのだと思います。

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