【緊急】アルコール携帯キャンペーン

a hanging face masks

こんにちは。そらまめです。

先日、令和哲学カフェで、東京オリンピックの白熱議論(やる?やらない?最高のやり方、最低のやり方)がありましたが、その中で、

マスクに加えて、アルコールを携帯して、手が触るところはとにかく消毒、触った後も消毒して、生活防疫を徹底させよう、という発信がありました。

ウィルスの性質からみて「人間の手が触るところは、ウィルスがいるところ」。ウィルス感染は、とにかく手から。

だから、手を徹底的に消毒、手が触ったところも徹底的に消毒。

そうすれば、ウィルスは統制可能になります。

私たち一人ひとりにもできる対策、広げたいものですね。

医師の観点からも、その対策がとても有効である旨が示されていますので、長岡美紀先生のFacebookから、そのことが記載されている6/26の記事を紹介します。

・・・ワクチン頼りではない人間に備わっている真の力、自然免疫。まずはそれを強化すること。そして次に、エンベロープウイルスであるコロナウイルスへの直接的な対処は、アルコールに弱いという特徴を利用すればいいのです。あちらこちらにアルコールを設置し、また国民一人一人が携帯用のアルコールを持参して回る。今まさに国民全員がマスクを着けているように。飛沫感染と接触感染が主な感染経路のため、手と触ったところをアルコール消毒して回れば、コロナウイルスは感染力を失っていく。「そんな微々たることが・・・」そう思うかもしれません。しかし一人一人の微々たる働きが大きな結果を生むのです。アルコール消毒は有効です。

引用元: 長岡 美妃 | Facebook


東京オリンピックを境に、この対策方法が有効な事例として日本から世界に広がれば、世界中が、ウィルスとの戦い方がわかるし、人間がウィルスに怯えずに、勝利していく道が切り開かれていきます。

ぜひ、一緒にアルコール携帯キャンペーン、やりましょう!

<<拡散大歓迎です!!>>

person holding hand sanitizer
Photo by Anna Shvets on Pexels.com

座右の銘には、前置きがあった。

mountain covered snow under star

人生は、勇気ある冒険か、さもなくば無だ。』

たしか、20才ごろに出逢った言葉ですが、それ以来、長いこと私の座右の銘でした。

過去形で書いたのは、40代を超えてから、この座右の銘がそれほど響いて来なくなったから。(私もすっかり落ち着いちゃったのかな・・・(笑))

若い時は、ワクワク、そして心が引き締まるような、何かに掻き立てられるような感覚で、このコトバを反芻していました。

最近、このフレーズをメモした紙が出てきました。

そこには、すっかり忘れていた、このフレーズの”前置き”が書かれていました。

久しぶりに宝箱を開けてみたら、自分でも忘れていたお宝を再発見!したような、そんな嬉しい気持ち。

そこに記してあった前置きは、以下のような言葉でした。

人生最大の悲劇は多くがその夢を実現できないことにある

それはリスクを恐れるからだ

人生は勇気ある冒険か、さもなくば無なのだ。

ギルバート・キャプラン


ギルバート・キャプランさん、どんな人だったのか、全く記憶がなく、

作家だったか冒険家だったか・・・?と、ネットで検索してみました。

すると、音楽にはまったくの素人だった実業家の男性で、でもマーラーが大好きで、難曲と言われる「復活」という交響曲の指揮にチャレンジしたところ大絶賛され、有名になった方だそうです。

つまり、普通なら誰もチャレンジしない、チャレンジしようとも思わないことにチャレンジして、思いもよらない結果を得た、そんな人のことばだったようです。

そして、さらに調べてみると、

人生は勇気ある冒険か、さもなくば無なのだ。

という言葉は、ヘレンケラーのことばとしても有名だそうです。

ヘレンケラーも、普通ではあり得ないことに挑戦した人として、本当に有名です。

実際に挑戦して、そしてその結果、突破した過去の偉人たちのことばには、説得力があり、勇気を貰えます。

でも、今、この瞬間も、チャレンジし続けている人たちは世界にたくさんいて、その一つ一つのチャレンジは、見える結果に繋がらなかったとしても、その価値は計り知れません。

そして、一ついえることは、結果までつながった人の共通点は

あきらめなかったこと。

若い時は、リスクを恐れない勇気に魂を揺さぶられましたが、年を重ねると、あきらめないこと、あきらめずにチャレンジし続けること、それが実はとても難しく、そして難しいからこそ大きなことだと感じるようになりました。

あきらめない心はどこから生まれるのでしょう?どうしたら、そのモチベーションを保ち続けることができるのでしょうか。

最近知ったショーペンハウアーという哲学者は、人間には、生への盲目的欲求があり、そこからは誰も逃れることができない。しかも、人生は苦痛か、苦痛から逃れた先にあるのは退屈、そのどちらかを振り子のように繰り返す、と言っていたそうです。

苦痛から逃れたい、その思いにはモチベーションが働きますが、苦痛から自由になってしまったら、一気にそこまでのモチベーションは消え、退屈になってしまう。これは、夢を持てば頑張れる、でも、夢が叶えば途方に暮れる、または、衣食住に困らなくなった先進国の憂鬱といったイメージともつながります。

若い時は、ああなりたい、こうなりたい、と夢や希望に燃えて勝手にエネルギーが湧いてきたのに、年を取って経済的にも豊かになり安定して、先が見えてくると、何に情熱を燃やしたらよいかわからなくなる、そこともつながりますね。

あきらめない心、持続的にモチベーションを持ち続けることは、難しいものです。

あきらめない心は、いったいどこからうまれるのでしょう?

すべての存在を、変化運動移動している力の源泉。宇宙を137億年ずっと進化成長させ続けている力の源泉。

そこに、枯れないモチベーションの秘密があります。

その源泉動きを、人生に活用応用して生きることを可能にするのが、令和哲学でありnTechです。

今日も、読んでいただいてありがとうございました。




◆令和哲学カフェ|平日毎晩無料開催中!




【特別企画①】東京五輪は危機かチャンスか徹底討論!_令和哲学カフェ



【特別企画②】東京五輪の最悪のやり方 最高のやり方を徹底討論!_令和哲学カフェ


◆NohJesuリテラシーマガジン





誰もが実はヒーロー(英雄)だった!?

今日は、誰もが実はヒーロー(英雄)だった!?というテーマで書いてみたいと思います。

突然ですが、ふと思い出しました。

昔、「あんたが大将!」という歌がありました。

お!もしや「誰もがヒーローだよ!」と既に歌っている歌だったのか?

と思って調べてみたら、全然違ってました(汗)

どちらかと言えば、

”人生そんなに簡単に上手く行かないけれど、今宵だけは「あんたが大将!」と持ち上げて、いい気持にさせてやるよ!”といった内容・・・

40年以上前の海援隊の歌でした。でも、このころの武田鉄矢さん、若くてかなり反骨精神がある目をしていますね。

はい。雑談でした。

でも、誰もがヒーローになれる、あなたもヒーローなんだ、といわれても、
「何を持ち上げようとしてるんだか」
「おだてたって何もでないよ」
「単なる理想論でしょ?」
そんなふうに思いやすいですよね。

誰もが実はヒーロー(英雄)、なぜこれを書こうと思ったか、といえば、今、時代的にも、どんどん人間の存在意義が小さくなってしまっているからです。

昔は、尊敬される人、憧れの人、そんな分かりやすいモデルとなる人物がいました。大統領、政治家、先生、銀幕のスター、歌手、等々。

でも、時代は進み、価値観が多様化して、インターネットの普及やSNSの広がりによって、更に価値観はどんどんバラバラになり、どんな人物像を目指せば、多くの人にとって貢献でき、模範となるような生き方ができるのか、様々な情報に触れれば触れるほど、判断がつかなくなり、皆目分からなくなってしまったのが、今の時代です。

更に、AIの台頭により、人間の仕事は奪われ、多くの人は、ベーシックインカム、つまり配られたお金で静かに暮す、いわゆる「無用者階級」が量産される社会が、それほど遠くない未来に来る、と予想されています。

誰もが、自分とは何なのか?何のために生まれたのか?どこに向かって、何を目指して生きたらよいのか?そんな本質的な問いに答を持たない限り、「無用者」となってまで、何のために生き続けないとならないのか分からない、人間として、なんとも生きにくい世の中になるでしょう。

そんな時代だからこそ、自分のことをまず自分自身が、とても尊く、そして勇気をもって非凡なことを成し遂げる存在、つまりヒーローだと認識できることは、かなり重要ではないでしょうか。


では、どうしたら、「自分がヒーローだ」と思えるのでしょうか?

結論から先にいうと、だれもがヒーローであることを気づかせる、その役割をするのが令和哲学です。

哲学は、認識主体を啓発するもの。

今、あなたが見ている、聞いている、この現実画面は、認識の結果物、つまり認識対象です。

あなたの身体も実は、認識主体ではなく、認識対象になるのです。

これは、カントが既に18世紀に「純粋理性批判」で語っている内容です。

認識主体を啓発していった先には、カントでいえば「物自体」があり、そこに、「誰もが実はヒーロー」と言い切れる鍵があります。


令和哲学カフェでは、ヒーローたちが生み出す新産業、「英雄産業」についても語っています。多くのヒーローが、新しい概念を生み出し、新しい産業を興していく、そんな未来が語られています。

興味のある方は、ぜひご覧ください。

今日も読んで頂いて、ありがとうございました。


◆令和哲学カフェ|平日毎晩無料開催中!

瞬間、という言葉の美しさ

瞬間:瞬きする間

日常で何気なくやっている瞬き。

瞬きする間のことを瞬間と言うのですね。

ほんの短い時間を表す言葉。

日本語とは面白いものです。

そのあっという間の時間にも、「間」という言葉が入っています。

あっという間にも「間」という言葉が入っていますね。

この「間(ま)」

令和哲学を理解するために、とても重要な概念ですが、一瞬の時間を表す言葉にも、この間の概念が入っていることに、日本人独特の、本質と繋がる繊細な感覚を感じました。

この一瞬にも、間があって、それが、

本質と現実を繋いでいます。

すべての美しさを凝縮したようなことば。瞬間。

今日も、読んで頂いてありがとうございました。

そもそも、悩みとは、どこから生まれるのか?

今日は、悩みがうまれる原因について、書いてみたいと思います。

このブログでも、30代や40代の女性の悩みをご紹介してきましたが、私たちの頭の中には日々、いろいろな悩みが生れたり、消えたりします。

ひとつの悩みが解決したと思ったら、しばらくすると、また別の悩みが生れたり、

別の悩みと思っていたら、あれ?なんだか以前と同じことで悩んでる?私?

と気が付いたり。

人生は、そんな風に、次から次へと悩みが襲ってくる、そんなもんでしょ。

とあきらめの境地になったり。

私も、以前は、そんな「悩み」に明け暮れる日々を過ごしていました。



では、そもそも、この「終わりなく悩みが生まれる原因」とはなんでしょう?

悩み、というものは、シンプルに考えれば

【理想と現実のギャップ】

と言えます。

「こんなはずじゃない!」

と思うのも、「理想の状態」のイメージがあればこそ。

もしも、今が最高!といつも思っていれば「こんなはずじゃない」という言葉自体、うまれてきませんよね?

となりの芝生は青い。という言葉にもあるように、理想はそっち(隣の芝生)だ、ここにはない、と思ってしまう。

ここまで読んでみて、どうでしょうか。

そうかそうか。「となりの芝生は青い。」ついうっかり思っちゃったな。自分の芝生、自分の足元の幸せを、ちゃんと認識しよう!そんな風に思った方もいますよね。

でも、そう頭では分かっていても、なかなかやっぱり、自分の足元を幸せと、100%思えないのが私達人間です。

今ここ、今おかれている状況そのものを、丸ごと全肯定できたら、それはそれはいつも満たされている状態になれるし、スッキリしそう。でも、そんな方法、一体あるんだろうか?

そう思われる方がほとんどじゃないかと思います。


では、どうしたらよいのでしょうか?

この現実は相対世界。かならず「2つ」があります。

例えば、理想と現実。これも相対する2つ。

つまり、理想と現実のはざまをさまようよう、つまり理想と現実を行ったり来たりするように、そもそもできているのが、相対世界。

つまり、相対するものを一つにできない限り、この行ったり来たりは終わりません。

そのためには、まず、この相対世界が生まれる前、もともと「2」でなく「1」だった、その出発にもどることです。

出発に戻るための一番大切な第一歩。それは、今まで人間が当たり前に使ってきた「脳」、実は、この脳機能に、そもそも限界があったことを知ること。

悩みの根本原因を発見できることが、悩みをオールクリアするスタートになります。



◆令和哲学カフェ|平日毎晩無料開催中!

男性も妊娠・出産できるようになる??

question mark illustration

令和哲学カフェ、第3期が始まりました。

今期のテーマは「女性性哲学」。

そして、昨夜は、

「男性も妊娠・出産できる女性性とは、どういうことなのか?」

というテーマで、ディスカッションが行われました。

令和哲学でいう男性性、女性性は、とても独特です。でも、そこにはすごく納得感があります。

今までの男性性、女性性は、身体を中心にして語られてきた、いわば「空間的な」男性性・女性性でした。

令和哲学でいう男性性と女性性は、今までと、今ここから。今までの人間の全ての歴史文明が男性性だった。そして、今ここからは女性性、というように、「時間軸で」みています。

男性性の文明を脳を中心にしてきた文明、そして、女性性の文明は心を中心にする文明、ともいえます。

今までは、獲物という敵・目標に向かって団結する「狩の文化」、これからは、すべての観点を鍋に溶かして美味しい料理に仕上げる「料理の文化」、という表現もありました。

nature sky man arm
Photo by Mikhail Nilov on Pexels.com
vegetables and tomatoes on cutting board
Photo by Pixabay on Pexels.com


狩りの文化は、敵に対しては団結できるけど、内輪もめが終わらない。敵を倒しても倒しても、また新しい敵が生まれる。本当に人類の歴史を「言い得て妙」でした。

対して、料理の文化は、敵をつくって団結するのではなく、敵も味方も、鍋の中に全部が解けてなくなってしまって、ワクワクするような、まったく新しいものが生まれる。

まるで、絵本「ぐりとぐら」みたいです。

大きなホットケーキをつくって、森のみんなで美味しく楽しく食べる。

stack of pancakes with strawberry fruits
Photo by Chokniti Khongchum on Pexels.com

男性性と女性性のイメージを使うと、令和哲学の概念がとてもイメージしやすくなるように感じます。

そして、本当の女性性に行くためには、「究極の絶望」に行くこと(但し、体験・経験ではなくイメージで)が、とても大切で、すべての苦しみ悲しみを超えたときに、「究極の希望」に行ける、というコメントがとても印象的でした。

77億の絶望を全て集めた究極の絶望、その絶望でひとつになること。それが、実は究極の希望のスタート。

今日も読んで頂いて、ありがとうございました。


◆令和哲学カフェ|平日毎晩無料開催中!



◆令和哲学・nTechをベースにしたそらまめのセッションはコチラ

ある数学者について。

今日は、ある日本の数学者について、書いてみたいと思います。

なぜ、これを書こうと思ったかというと、実は、哲学と数学には、意外な共通点があることを知ったからです。

昨年は、令和哲学カフェをオンラインで毎晩見ながら、今までの人生で全く縁のなかった西洋哲学を聞きかじることができました。

宗教は信じることからスタート、哲学は疑うことからスタート。

疑い深い私には、実は哲学は合っているのかもしれません(笑)

そして、その哲学が数学と「似ている」と知ったのは、もう20年前のこと。

当時、母校の同窓会に参加した私は、数学科卒業だという大先輩から、母校の名誉教授で著名な数学者であった岡潔先生のことをお聴きしました。そのお話が、非常に印象的だったので今でもよく覚えています。

岡先生は、「数学と哲学はとても似ている」と話されていたそうです。どちらもどこまでも論理的に突き詰めるものだから、と。当時の私は、哲学は「心に関すること」とざっくりとらえていて、心構えや考え方といった、どちらかというと精神論に近いものだと思っていたので、哲学もどこまでも論理的だ、と聞いて、非常に意外に思ったことを覚えています。ただ、最近、岡先生のことを少し調べてみたところ、実はもっと深くかつ柔らかいイメージを持たれていたことが分かりました。


岡自身によれば、岡は「純粋な日本人」であり、日本人として持っている「情緒」に基づいて、その数学的世界を創造した。岡はこのような自身の体験に基づいた随筆をいくつか書いていて、一般にはむしろそちらの方でよく知られている。

三高時代、岡は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語っている。岡の考えでは論理や計算は数学の本体ではなく、表面的なことを追うだけでは答えが見えてこないと思っていた。この見えざる数学の本体に迫ることと、仏教的叡智や情緒の探求は岡にとって表裏一体であったと考えられる。

引用元:Wikipedia『岡潔』より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%BD%94




現在、すべての学問の頂点にあるのが数学と言われています。それは、目で見て観察できることを基準とする物理学で証明しきれない部分を、概念知識である数学(数式)によって解き明かせるから。

例えば、ヒモ理論のヒモ、やM理論の膜といった概念は、実際には観察した結果としての存在は実証はされていないけれど、数式や計算上ではつじつまが合う、という段階にあります。

つまり、現実的に観察できていなくても、数式で理論上証明できていれば、あとは実証を待つばかり、と言うことですね。近年、すべての光を吸収してしまうため観測は難しいとされていたブラックホールが観測(撮影)された、というニュースもとても大きく取り上げられていました。

哲学は言葉による概念によって、数学は数字による概念によって、この世の理(ことわり)を明らかにしようとする学問。どちらも西洋から来たものですが、この記事を読むと、

岡先生は、数学と哲学を表で、その裏に仏教を見ていたのかもしれません。

令和哲学は、0=∞=1というシンプルな数式で、仏教の世界と、数学の世界をシンプルに説明する概念でもあります。

さらに、令和哲学では、様々な西洋哲学も、そのシンプルな概念から解析し、歴史上の哲学者たちが何を、どこまで伝えようとしていたのかを、非常に分かりやすく解説しています※。

(※詳しくは、nTech Online Univ.に、令和哲学カフェのアーカイブ動画が掲載されていますので、ご興味のある方はご覧ください)

そして、一番重要なのは、今ここで、一瞬前の自分の考えすら手放して、新しく認識を構築することができること。

死生観も超えて、死の恐怖から自由になり、絶対的な安心感からいつも出発できる。

となりの人を愛しく思えること。そして自分自身も愛しく思える。

しかも無理やりではなく(笑)

これが、特定の人、何十年も苦行した果てにたどり着く境地ではなく、いまはたったの3日間で、到達できてしまう、そこまで体系化できています。

岡先生が探求し、目指されていた境地も、そんな境地だったのではないかと思います。

ひとりひとりが、心の底から安心して、∞の可能性を存分に発揮できる教育であり哲学を、日本から世界に発信する準備は、すでにできています。

◆意識をアップデートする|令和哲学カフェ



◆令和哲学カフェ|第二期の様子はコチラ




◆気軽にnTechの基礎を学ぶなら|nOU(nTech Online Univ. )




◆令和哲学・nTechをベースにしたそらまめのセッションはコチラ

オリンピックについて考えてみた。

お久しぶりです。ここ半年(実際は1年)程、かなり集中して取り組む必要のある案件に関わっていたので、更新がすっかり止まってしまいました。

これからまた、少しずつ、令和哲学のことや日々のこと、関心のあることや、そらまめが提供しているサービス全般についても、書いていきたいと思います。

今日は、オリンピックについて思うことを少し。

今、オリンピックの開催について、否定的な人が多いようですね。

東京五輪・パラリンピックを今夏開催するべきだとした人の割合は24・5%、再延期するべきだは32・8%、中止は39・2%で、いずれも3月の前回調査の23・2%、33・8%、39・8%から横ばいだった。

2021/4/15日刊スポーツアンケートより引用 https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202104150000121.html


中止・再延期を望む人が、75%近くに上るようです。

諸外国の意見も、民間の調査によると過半数が開催に否定的だということです。

世界中の人が日本に集まり、コロナの新しい変異株ができることを危惧する声や、今も医療体制が大変な中、感染が起こった場合、選手たちを優先するのか、それとも日本人を優先するのか等、いろいろなリスクが考えられますから、無理して開催するよりはしない方が、明らかにリスクは低い、となるのはよく分かります。

直近のことを考えればたしかに、リスクが低い方を選びたくなりますよね。

そもそも、この問題は、日本のコロナ対策が、なかなか思うように進んでいない影響が、かなり大きいと思います。

日本のこれまでのコロナ対策を諸外国と比べてみると、欧米の様にハッキリとロックダウンをするわけでもなく、様子をみながら、なんとなくなんとなく、良い方向に向かえばよいな、といったスタイルで、どうしても「曖昧さ」を感じてしまいます。まさに、合言葉は「がまん」。

そして、飲食店に偏って制限を強いる緊急事態宣言や、蔓延防止法。一部の業種に特に大きな我慢を強いるスタイルは、「それなら、一斉にロックダウンしてウィルスを押さえ込んだ方が、公平性もあるし短期間で済んで効果的なのでは?」という意見も、飲食業界以外からも聞こえるようになっている現状もあると思います。

そんな中、オリンピック、さあどうするか、いよいよ判断を迫られているこのタイミング。

今の状態からみたら、開催を危惧して反対する意見が多いのは分かります。

でもしかし・・・

10年後、20年後の未来から見たら、どうでしょうか?

戦後の高度経済成長を経て、バブル崩壊を経験し、ものづくり中心に経済を成り立たせていくことがどんどん難しくなる中、次の産業が期待されつつも、ITに関しては、日本は今や中国・台湾に較べて後進国となっている現状。

コロナで観光産業もストップし、その目玉だった東京オリンピックも延期となり、もともとオリンピックのあとの日本はどうなるのか?と危惧されていたところに、コロナが長引いていることによる今回の延期か中止か、というオリンピックの開催を危ぶむ議論。

このまま、再延期はないと言われている中、オリンピック開催をただやめてしまえば、日本に、どんなメリット、そして未来がありそうでしょうか?

勇気ある挑戦を避け、成熟したあとの衰退をたどる斜陽の国、そんなイメージが加速する未来が、そこには見えてくる気がしてなりません。

もしも、ここで、「感染対策をしっかりやって、体制も整えてオリンピックやりましょう!」と力強く宣言し、実行するリーダーシップがあったなら、日本人であれば、様々な細かいことまで考えて万全に準備して、世界の選手団を迎え入れ、そして安心して競技をしてもらい、世界中に、「コロナ禍のなかでも、日本の人たちの団結によって、オリンピックが開催できた!」という、希望が示せるのではないかと思います。

日本が世界に示せるのは、自国のことだけを優先して、小さくとどまる姿ではなく、東日本大震災で見せた、大変な状況でも整然と並んで順番を待つような、世界中が大変な中でも、人間の精神の美しさを、その姿勢や態度でみせることではないでしょうか。

そして、今更ではありますが、このコロナパンデミックが始まった当初、いち早くウィルスの特性を解説し、日本式ロックダウンを提案して、心のコロナ、経済のコロナ、体(健康)のコロナに対処しようと発信していたのが、令和哲学者NohJesu氏でした。

令和哲学チャンネルより



そして今も、ポストコロナオンライン会議を通して、コロナ禍の今、様々な分野で活動する方々のリアルな声を聴きながら、これから日本が選択するべき道を、継続して提案し続けています。

令和哲学チャンネルより。ポストコロナオンライン会議アーカイブ動画



もしも1年前、日本が思い切って、日本式ロックダウンに踏み切っていたら・・・と残念に思う気持ちもありますが、”すべてを根源的な仕組み、メカニズムで解明し整理する令和哲学”が、まだ世の中でメジャーになっていない中では、困難な選択であることも理解できます。

今となっては、間に合わないタイミングに来ていますが、それでもまだ、日本が世界に示せることはあると思います。

これは、あくまで個人の意見ですが、多くの日本人は、「やろう」と決めたら、必ずやると思います。

日本が世界を感動させる。その一場面として、ぜひ、東京オリンピック、開催して欲しいと思っています。


●情報過剰な時代の羅針盤、NohJesuリテラシーマガジンはこちら。
https://www.literacy.noh-jesu.com/


煉獄杏寿郎が象徴しているものとは。

鬼滅の刃・無限列車編、凄まじい人気ですね。

かくいう私も、実は、映画館に足を運びました。しかも、なんと2回も!!(笑)

映画館に上映中に2回も足を運ぶなんて、人生で初めてなんじゃないか??

と思うくらいの奇跡がおこっている令和2年の年の瀬です。

さてさて、その鬼滅の刃、ラスト15分、ほぼ泣きっぱなしでした。

そんな方、多いのではないでしょうか?

何に泣いたのか?

それは、一言で表すなら、煉獄さんの生き様に、です。


なぜ、そこに、そこまで共鳴共感して、涙が止まらなかったのか。

それは、まさしく、75年前、戦いそして命を落とした日本の姿そのものであり、彼が炭次郎に語り掛けた言葉は負けた日本がのちの世代に託した祈り、そして炭次郎が発したことば一つ一つが、そのメッセージを託された、そして今の日本そのもの心の奥底にある叫びでもあるからだと、私は思いました。

日本は、負けたのではない。責務を、全うした。

そして、美しい未来を残すために、命を燃やし、そして燃え尽きた。

そのメッセージが、映画を通して、今の日本人ひとりひとりのココロに
ダイレクトに響いてくるのではないかと。

だから、こんなにも、老いも若きも、このストーリーにくぎ付けになり
心が震えてしまうのではないかと。

私はそう感じました。

新型コロナウイルスが現れ、世界のありようが大きく変化した2020年。

AI(人工知能)の台頭によって、人間の存在意味が問われる時代。人と人が直接触れ合うことがコロナによって制限され、アンコンタクト社会となり、ライフスタイルのIT化に拍車がかかり、先行きが見えない、漠然とした不安はその濃度をどんどん増している今このとき。

人間が向かうべき方向性はどこなのか。そして日本の役割はなんなのか。

人間が700万年間こえられなかった弱点と、今の危機的な状況の関係。

それを突破するために日本が全うするべき責務。

その道が、どんなに困難だとしても、進むしかない道が、切り開かなければならない道がある。

そのことを、教えてくれているのが、この映画だと、私は思います。

鬼滅の刃を通して、日本の、日本人の役割に出会いたい方、

煉獄杏寿郎や炭次郎のような生き方を、心の底で望んでいる方は、ぜひ語り合いましょう。コメント、メッセージをお待ちしています。


猛暑の中、終戦の日に。

長い梅雨が終わって、カラッと晴れた!と思いきや

猛暑の日々がスタート。

今年、本当に地球は人間に過酷な試練を与えてきます。

コロナ禍だけではなく、豪雨に猛暑、世界中で起こっているこの出来事。

人間は、これから、どうなっていくのだろう?

そんなことを、誰もが考える時代になりました。

そして、夏の盛りの、お盆の真ん中、8月15日は、75回目の終戦記念日でしたね。

8/6、8/9、8/15。

一年間で一番暑く、そして親戚中があつまる季節。

でも、そこに、暗くシリアスに横たわる空気感。

以前の日本にとって、8月はどんな季節だったんだろう?と、想像もつかない位、

日本人で生まれてこの方、8月は毎年、「終戦」「戦後」「敗戦」といった二文字を深く刻み込む季節だったんじゃないかという気がします。

そして、日本人であれば、どんな人の中にも「もう二度と戦争はしない」という誓いのようなものが、意識はしなくても、暗く、悲しく、淋しい、悔恨の記憶の中に、無意識深くに刻み込まれているのではないでしょうか。

そして、「生きていてごめんなさい」「戦争をしてしまってごめんなさい」といった深い反省も、この、毎年8月のメディアからの情報配信(テレビ、ドラマ、ニュース)を通して、繰り返し繰り返し、日本人の意識の中に、教育され、浸透しているのだと思います。

私自身、そこまで、戦争に対して、罪悪感や、申し訳なさを意識的に感じていたわけではなかったのですが、

外国に行ったり、日本人以外の観点を聞けば聞くほど、日本人の中にある「罪悪感」に気付くきっかけがありました。

その、共通の罪悪感は、「日本」という国が、敗戦して、国に対する誇りや、アイデンティティを喪失したからこそ、個人個人の中に、深く影を落としているようにも思います。

なぜか、自信がない。どれだけ評価されていても、活躍していても、心の奥底を聞くと、たいがいの人が

「実は自分に自信がないのです」

そう仰います。

これは、戦後75年、国のレベルで解決しなければならない、人間の尊厳にかかわる問題だと、私は思います。

1945年8月15日、当時の昭和天皇は、

「このままだと、日本人全員が滅びてしまう。そしてそれは、人類全体が滅びることにもつながっていく。ならば、今は耐え忍んで、非常につらい思いはするだろうが、戦いをやめよう」

そう仰って、戦争を止められたそうです。

ふと冷静に考えても、原子爆弾というひどい爆弾を、一度に数十万人が死んでしまうようなそんな爆弾を、一般市民に向けて2つも落とされた、そんな国は日本以外にありません。

世界で一番、ひどい目にあったとしても、決してそのことを恨まずに、反省しすぎるほど反省して、平和を誓い続ける、そんな国も他に見当たりません。

でも、日本人にとっては、それが自然なことでもあります。

ただ、一つだけ気になるのは、やはり、ひとり一人の尊厳が、心の奥深いところで、とてつもなく傷ついている、ということ。

平和を、だれよりも、どの国よりも希求する、その意志があるのであれば、

まず、自らを、自らで十分に癒し、そして、そのもとで、世界の平和も担保していく。

それが、本当の日本の役割なのではないか、そんな風に私は思います。

暑い暑い、猛烈な暑さの日本列島から、そんなことを考えた、今年の終戦記念日でした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


様々なゲストの皆さんが、濃度の濃いトークを繰り広げた8/15のポストコロナオンライン会議。

いくつかの質問に対して、様々な視点から語られる内容を興味深く拝聴しました。2時間半の内容ですが、見ごたえあります。よかったらご覧ください。

令和哲学チャンネルより

全体テーマ【beyond everything 日本の決断】

<会の中で話されていたテーマ>
Q.新型コロナウィルスのパンデミックには、どんな意味があるのか?
Q.給付金等で配ったお金を、どう回収するのか?(経済危機の解決策とは?)
Q.新しい価値観に向かうときに起こる、判断基準の違いをどのように解決したらよいのか?
Q.令和JAPANは、21世紀の世界にどんな貢献ができるのか?