そらまめのプロフィール

こんにちは。そらまめです。

0=∞=1からはじまる自然体で凛とした生き方。そしてつながり。

ブレない軸を持ちつつも、自然体でリラックスしながら自分らしく生きられる、そんなライフスタイルを、主に30代~40代の女性に向けてご案内しています。

今日は、改めて、私のストーリーを書いてみようと思います。

0=∞=1からはじまる生き方に出会うまで、そこに至ったきっかけや、なぜ、こんな風に発信しようと思ったのか、を表現してみようと思いますので、良かったら読んでみてください。

 


【幼少期:自分いらないじゃん。世界一不幸な私を決断】

 

私は、長野県の南部、自然がいっぱいの田舎に生まれました。

 

 

父は教師、母は保育士、という、教育一家でしたが、

3歳くらいからは、母方の祖父母と同居することになり、

祖父は果樹園(梨やりんご)をつくっていて、その他にも田んぼづくりや畑もある、いわゆる兼業農家でした。

小さいころの思い出と言えば、家族総出での田植えや稲刈り、果樹園での受粉作業や収穫作業といった、子どもにしては、かなりの重労働・・・(泣)

そしてなにより、とにもかくにも、

 

『お母さんが、めちゃめちゃ怖い・・・(汗)』

 

小さいころの思い出は、母からは怒られた記憶しかないくらい。

とにかく厳しくて、容赦なくしかり飛ばされてました。

「早くしなさい!!」「いつまで寝てるの!!」「だらだらするな!!」「早く寝なさい!!」

油断すると、ヒステリックな怒号が飛んできます。

いつ雷が落ちるか分からないので、「怒られないようにしないと!!」といつもびくびく、戦々恐々とした日々でした。

夕食後、こたつに入って、うたた寝をしていると、決まって母に「早く(布団に入って)寝なさいっ!!」と怒られるので、母が近づいてくる足音を聞くだけで飛び起きたり

母がいない間、TVを見ていたりゴロゴロしてのんびりしている姿を見つかると、雷が落ちるのでそれを恐れて、母が帰ってくる車の音がしたとたんに慌ててTVを消して勉強しているふりをしたり

NHK以外のTVは、なかなか見せてもらえないので、祖父母の部屋に逃げ込んで、こっそり「8時だよ!全員集合!!」(懐かしい!!)を観たり

そんなことは日常茶飯事でした。

 

母は5人姉妹の3女でしたが、田舎の本家だった家を継いでいて、父は婿養子でした。

祖父は、寡黙な明治生まれの男子で、家ではとにかく母が一番強くて、祖母に対しても日頃からけちょんけちょんに言うのが当たり前。

逆に、父は本当に優しい人で、諭されたことはあっても、怒られた記憶は全くありません。

その分、母の恐ろしさが際立ったのかもしれませんが・・・

そんな最高権力者の母に、何をやっても褒められることもなく、日々怒られつづけた私は、

「私は、お母さんのほんとの子供じゃないんじゃないか」

「私は、橋の下から拾われてきた子供だったんじゃないか」

そんなことを、本気で思うようになりました。

まさに、継母に理不尽にいじめられるシンデレラ。悲劇のヒロインです。

 

更に、私は次女だったので、生まれた時から、家を継ぐ、というミッションからは、当然外れていました。

ひとつ上の姉は、本家に生まれた長女だったので、お座敷いっぱいにずらりと並ぶくらい、たくさんのひな人形を持っていましたが、

私のひな人形は、両親がお情けで買ってくれた「よしべえ人形」という名前の、あまり可愛くない、金太郎みたいな男の子と女の子がひとつのガラスケースに入った人形だけ・・・(涙)

そして、一回り近く年の離れた弟も、待望の男の子であり、長男だったので、こいのぼりや五月人形、兜などなど、親戚中からわんさかとご進物が贈られてきて・・・

その状況は、さらに私に

「私は、いらない存在なんだ」

と、確信させるに十分でした。

 

次女、という立場は、将来、どこに行ってもいいし、好きにしてもいい。

そんな自由がある反面、逆に、自分がこの家に必要な存在だとは、そもそも思いにくい立場だったのだと思います。

この家に不要な人間、母からも嫌われているし、本当の子じゃないのかも??と思っていたくらいですから

ご先祖さまへのリスペクトも生まれるはずもありません。

 

そして、日本という国についても、「素晴らしい国」という教育は家でも学校でも、一度も受けたことがなく、

日本は、戦争中に他の国にひどいことをした悪い国、ダメな国、というイメージしかなかったので

日本人としての自分さえも、肯定できる要素は1ミリもありませんでした。

 

つまるところ、どこをどうみても、自分のアイデンティティの置き所が見当たらず、そんな私が自分自身に出した結論、それは

 

『自分いらないじゃん。世界中の誰にも必要とされていない、世界で一番不幸な私』

 

だったのです。

 


【青年期:誰からも必要とされる医者を目指す】

 

そんな私も、高校性になって、進路を考えるようになりました。

中学時代は成績優秀、生徒会長候補にもなり、吹奏楽部に入り、県大会は当たり前、東海大会を目指しながら友達と青春を楽しく謳歌し、高校は、地元の進学校に進みました。

そんなある日、新聞に載っていた「国境なき医師団」の記事が目に留まりました。

 

 

そのとき私は、「こんな仕事がしたい!」と思いました。

それは、命をかけて、戦争地域に赴く、そんな仕事への憧れでした。

生と死がギリギリのところで何かをしたい。命をかけて何かをしたい。

誰から見ても、絶対必要とされることじゃないと、やる意味がない。

そんな風に思っていました。

そして、医師を目指しましたが、結局共通一次(今でいうセンター試験)で思ったような点数が取れず、親からは浪人するか進路変更するか、自分で決めていいと言われましたが、

私が浪人することでかかる学費が、親の負担になることは避けたい。まだ小さい弟のことも考える必要があるし、と自ら考えて、医学部は諦める結論を出しました・・・

そして、関西の女子大の理学部に進学して卒業し、某総合電機メーカーにSE(システムエンジニア)として就職しましたが、医学部をあきらめたことは大きな挫折感となり、その後、10年以上、ずっと後悔することになります。

 

『人生は勇気ある冒険か、さもなければ無だ』

 

挫折感のなかで悶々としていた20才くらいの頃に出会った、わたしが好きなコトバです。

 


【20代:本当の日本との出会い】

 

システムエンジニアとして、まさに馬車馬のように働いていたある日・・・

司馬遼太郎の「龍馬が行く」という本との出会いがありました。

衝撃を受けたのは、ほんの120~130年前の幕末=明治維新の時には、自分と同じような年代の若者たちが、「この国のために」と命懸けで立ち上がり、そしてバタバタと死んでいった、という事実でした。

その明治維新のおかげで、日本はアジアの中で唯一、欧米の植民地にならずに済んだということ。

そんな人たちのおかげで今の日本があるのに、なぜこの歴史を、学校ではちゃんと教えないの??(近代歴史は学校教育では、かなり駆け足でとりあえず程度に扱うのみですよね)という疑問がわきました。

そして、かつて「日本のために」と命懸けで立ち上がる若者たちがたくさんいた時代があったというのに、今、私は「日本のために」命懸けで何かしたい、という気持ちに一ミリもなれないし、そんな友人も一人もいないし、周りからも聞いたこともない、この格差は何なの??

日本のために死にたいなんて全く思わないし、アメリカは大好きだけれど、日本は嫌い。

アメリカはカッコイイ、憧れの国だけど、日本はカッコ悪い。ウサギ小屋に住んでガツガツ働くイエローモンキーの日本人。

なんで、こんなに、自分の国に対する思いに違いがあるの??たった130年前の日本人と、今の日本人との間に生まれた違いは一体何なの??

そんな疑問があとからあとから湧いてきました。

 

そして、あるとき私が気づいたこと、それは

 

「ああ、それは、日本が戦争に負けたからなんだ」

 

ということでした。

戦争に負けて、戦後の教育によって、日本人が大事にしてきたものが全部なくなってしまったんだ、ということに、その時、はじめて気が付きました。

 

 

昔、ドラマで見た、終戦直後の小学校で、教科書の不適切な個所を墨でどんどん塗りつぶしていく、そんなシーン。

先生のいうことが、終戦の日を境に、180度変わったのをみて、「国や先生の言うことを、うのみにするのはもう絶対にやめよう」と強烈に思ったという、終戦当時小学生だった叔母の言葉。

そして、その敗戦の延長線上に、今の日本がある、というその事実。

そうやってできているのが、今の日本の社会システムなんだ、とうこと。

 

明治以降の近代史をまともに教育しない。日本の素晴らしさを教育で教えない。

その理由が、第二次世界大戦(太平洋戦争)での敗戦、アメリカとの戦争に負けたことから来ているんだ、ということが明確にわかった瞬間でした。

 


【30代:会社を辞めて、庭師となり、日本の素晴らしさと出会う】

 

誰もが知っている大手企業に入り、安定した仕事に就いて、上司や周りからもありがたいことにとても高く評価して頂いて、昇進も同期の女性たちの中では早い方だった私ですが、

実は、ほぼ3年ごとに会社を辞めたいと思っていました・・・。

理由はいろいろありますが、今思えば、一番大きな理由は、

「どうせやるなら、全身全霊で迷いなく打ち込める、命がけでやれる仕事がしたい」

というのが心の奥底の本音だったと思います。

医師をあきらめてからは、システムエンジニアとして働きつつも、本当にやりたいこと、心が満足する何かを探そうと、いろんなことを試しました。

仕事で忙しい合間を縫って、習い事をしてみたり、語学や心理学の勉強をしてみたり、他の仕事を調べてみたり・・・

でもどれもイマイチ本気にはなれず・・・

そんな時に、これはやってみたい、と思えたのが、自然や植物を相手にする仕事でした。

田舎で育ったからか、昔は当たり前すぎて、自然が心地いいと自覚することは全くなかったのですが、

都会で働くようになってからは、たまに実家に帰省すると、心も体も元気で軽やかになる自分がいることに気が付きました。

そして、仕事で疲れ切ったときは、週末、当時住んでいたマンションの近くにあった多摩川の河川敷や、広い公園に行くと、とても心がスッキリしてリラックスできるのを感じました。

満員電車で通勤する最中も、多摩川を通過するとき、その景色を見るだけで、なぜかとても心がスッキリして落ち着くので、とにかく、自然や広々とした景色、公園や海や緑、といったものは大好きでした。

 

 

そんな日々を送っていたせいか、コンピュータという機械を相手にする仕事よりも、自然を相手にする仕事がしたい、と思うようになり、システムエンジニアの仕事も続けながら、京都の大学(通信教育)で庭造りや、公園や風景のデザインの勉強をはじめました。

庭の世界を学ぶことは、新しい人との出会い、そして日本文化との出会い、自然との出会いに溢れていて、それこそ、感動と楽しさ、喜びの連続でした。

幸運にも、庭づくりをしているプロの方との出会いもあり、そんないくつかの出会いを通して、これからは、庭づくりをメインに植物、自然に関わる仕事をしていこうと決めました。

先のことはしっかり具体的に道が見えているわけではありませんでしたが、当時は既に結婚していたこともあり、夫の理解(しぶしぶではありましたが・・・苦笑)も得られたので、思いきってそれまで続けてきた会社を辞め、新しい方向で身を立てることに、本格的に専念することにました。

そんな中、勉強のために京都に頻繁に通うようになって知ったのが、日本文化の素晴らしさでした。

庭を通して日本の文化に触れることは、毎回、隠れている本質的な美しさを発見して、細胞の中心がそこに共鳴して振動するような感動が連鎖的に沸き上がる、静かにキャーキャー叫びたくなってしまうような感覚でした(変態ですみません(笑))

さらに、日本の庭、京都のいろいろな庭を回って感じたことは、

 

「日本人には当たり前のように真理の感覚がある」

 

ということでした。

それは、黄金律とでもいえばよいのでしょうか。

これは自然風だけど、これは自然風じゃないといった、真理のバランス感覚が、自分の中にもあるし、日本人には当たり前のように、それこそDNAレベルで備わっているんだ、とうことを肌で感じたのです。

そんな私が思うようになったこと。

それは、こんなすごい芸術性や文化、そして歴史をもっているにもかかわらず、その価値を、日本人自身が気づいていないし評価していない。

すごいのに、ダメだと思わされている。自分の国や自分自身に価値を感じられない。

そんな日本と日本人の名誉を回復したい。誇りを取り戻したい。

自分も含めて、日本全体の誇りを取り戻したい。素晴らしさを復活させたい。

ということでした。

そんなとき、とあるホテルの裏にあった、有名な庭師がつくったにもかかわらず、手入れも行き届かずに寂れてしまっている庭を復興させることを通して、日本の文化、日本の良さも復興させよう、そんなプロジェクトに関わらないか?という話をいただきました。

私も、そのプロジェクトに協力できたら、と思いました。

でも、実は、心の中の本音は

 

「自信がない」

 

でした。

例え、その庭がひとつ整備されたとしても、それは、日本と日本人が誇りを取り戻すための、大河の一滴にもなるかならないか。

そして、自分に果たしてそれができるのか、役に立てるのか。

そんな気持ちで、どこかで自分自身にもあきらめを感じながらも、かなり微妙な心で取り組んでいました。

本当にやりたいと思えることに出会えたとしても、どこかで妥協しながら、一番は、自分自身の無力感と向き合いながら、それでも取り組む。これはかなりきついことでした。

根本的な部分では「たぶん無理」という絶望感を抱えながら、でもそんなあきらめを、人には言えずに隠して生きていく。嫌だけれど、でもそれがきっと当たり前で、それが人生なんだ、そんな気持ちでした。

 


【ある人との出会い】

 

そんなある日、自然環境保護に関連したとあるイベントで、人生を変える出会いがありました。

そこで出会ったのは、同年代のかなり美人な女子でしたが、彼女が私に紹介してくれた人、それが認識技術(nTech)つまり、0=∞=1のイメージを発見したNoh Jesuさんでした。

今では、その美人な女子は、この認識技術を教える講師をしていますが、なぜ、私がこの技術に興味を持ったのかと言えば、

「世の中にある、あらゆる問題は、たったひとつの根本原因に集約することができて、その根本原因を解決する技術があるよ」

と、びっくり仰天!なことを言われたからです。

半信半疑でしたが、それでも、どうもウソを言っているようにも見えない・・・

根本原因が一つで、それを解決できるということは、私が問題と思っているいろいろなことも、全部解決しちゃうってことよね??

そんな都合のよい方法、あるわけないじゃん!!!

もし、あるとしたら、そのとき私が抱えていたいろいろな問題

 

・どんなに褒められても、なぜか自分を認められない

・他人の評価が気になって、ついつい八方美人になって疲れてしまう

・自分に「これ」といった軸がない、自分に自信が持てない

・心が常に満たされた状態になりたいのに、なかなかなれない

・人に嫌われるのが嫌で、嫌われると地の底まで落ち込む

・日本の誇りを取り戻したいのに、その方法がわからない

・好きなことを仕事にしても、どうしてもその中での矛盾が生まれてしまう

・素晴らしい庭をつくるプロの間でも、人間関係で仲たがいが発生している

これ以外にも、世の中にあふれている、社会問題、自然環境の問題、戦争や貧困の問題・・・

 

こんな、いろいろな問題が、すべて解決できるなんて、そんなのありえないでしょ??

私は、かなり慎重で、疑い深い人間だったので、最初はかなり、不信感をあらわにしていたと思います(汗)

でも、それでもやはり気になって、話を聞くうちに、これはどうしてもちゃんと知っておきたい!!と思ってしまった私は、

思いきって、海のものとも山のものともわからないその内容を、自分の直感に従って、学んでみることにしました。

 

そしたら・・・

 

まあ、本当に、ものの見事に全ての問題を、根本から解決する技術だ、ということが、よくよく分かってしまったのです。

もちろん、この技術は道具なので、現実で本当に解決まで行くためには、時間のかかるものもあります。

でも、この技術を使えば、必ず解決できるし、あとは時間の問題。

その確信が生まれました。

実際に、この技術によって、私の中で何が起こったのかと言えば、それは、一言でいえば、

 

「模様や形があるままで、自分と自分の宇宙が消える」

 

そんな経験です。

つまり、それまで生まれた瞬間から積み上げてきた経験や知識(脳の中にある概念)が、キレイにすべてゼロリセットされる経験でした。

積み上げてきた知識や経験だけでなく、自分自身に対するイメージさえも、一旦キレイにゼロ化されることで、

生きたまま死ぬ、そして、

宇宙ができた仕組みそのままに、「今ここ、新しく設計しなおす」

ことができるようになりました。

しかも、何度でも。

そして、人間は、誰もが無限の可能性そのものであることも、信じるのではなく、「理解」して「共有」できるようになりました。

さらに、自分自身の問題が一掃されただけではなくて、なんと、

日本が誇りを取り戻す道すじまで、ハッキリと見えるようになりまた。

このとき、認識技術(nTech)を0から丁寧に教えてくれたのが、0=∞=1のイメージの発見者、Noh Jesuさんでした。

Nohさんは、日本の素晴らしさと可能性を、それまで私が出会ったどんな人よりも明確かつ繊細に言語化してくれました。

初めてそれを聞いた時、涙が溢れて止まらなかったことを、今でもよく覚えています。

「そうそう、そうなんです、ほんとに、そうなんです!!」と言いたくなるくらい、

それは、自分個人のことというよりも、もっと深い日本のことを、それこそ、一番深いところから丸ごと分かってくれるひとに初めて出会えた、という感動の涙でした。

さらに、Nohさんは、

 

この技術は日本人のためのものです。

日本人だけが唯一、この技術を世界にプレゼントしていくことができます。

 

と言い切っていました。

私は、大和魂に呼ばれたのです、と。

日本を、誰よりも一番深いところから理解し、日本の名誉を回復することに、命を懸けて取り組んでいる、そんな人物(しかも外国人!しかも反日が当たり前の韓国の人です。)との出会いは、私の無意識にあった絶望が、希望そのものに大反転する、そんな大事件でもありました。

そして私は、この技術で、自分自身だけではなくて、日本の誇りも取り戻せることを確信したのです。

 


【世界一不幸な自分から、無限の可能性の自分と出会い、PUの創造主となる生き方へ】

※PU:パーソナルユニバース

 

認識技術を知り、それを人生に応用することで、私の生き方は大きく変わりました。

一番大きかったことは、自分も含めた全ての存在を、無限の可能性として無条件肯定できるようになったことです。

それを通して、

誰も支配しないし、誰からも支配されない生き方へ、

つまり、自分の尊厳を自分で守れ、自分で自分を癒せるだけでなく

自分の宇宙を自分で創造し、経営していける、そんな生き方へと変化しました。

PCの時代から、PUの時代へ。

一人一台、PCをもって使いこなす時代から、一人がひとつの宇宙を、自分で自由にデザインしていくことが可能になる時代。

そのための世界で唯一の技術が、認識技術(nTech)です。

そして、今では、この技術を共有した仲間と一緒に、ビジョンに向かって、今までにないチームビルディングにチャレンジしながら、現実の課題解決に取り組んでいます。

 

そんなマクロの取り組みもやっていますが、今、大切に思っていることは、30代初めに自分が抱えていたいろいろな課題、

・どんなに褒められても、なぜか自分を認められない

・他人の評価が気になって、ついつい八方美人になって疲れてしまう

・自分に「これ」といった軸がない、自分に自信が持てない

・心が常に満たされた状態になりたいのに、ほぼほぼそうなれない

・この人だけにはわかってほしいと思う相手に、どんなに努力しても分かってもらえないことがあり絶望を感じる

・心からやりたいことが見つかっても、一抹の疑問は消えず、どこかで諦め、妥協しながら取り組んでいるため、100パーセントそこに集中できない

etc.

そんな課題を解決してきたプロセスを、ぜひ、今、同じような課題を抱えている方達と分かち合って、

 

0=∞=1からはじまる自然体で凛とした生き方。

 

そんな、ブレない軸を持ちつつも、自然体でリラックスしながら自分らしく生きる、そしてそんな自分から関係性やつながりを築いていく新しいライフスタイルをプレゼントしたい。

そんな風に思って、このブログを書いています。

 

こんなに長いストーリーを、最後まで読んで下さって本当にありがとうございました!


この内容が、少しでも読んで下さったみなさんの生き方のヒントになれば、とても嬉しいです。

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